世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3418
世界経済評論IMPACT No.3418

八田與一物語:台湾で最も尊敬された日本人・嘉南大圳の父

朝元照雄

(九州産業大学 名誉教授)

2024.05.20

没後82年慰霊祭

 5月8日,頼清德副総統(5月20日に総統就任)は,台南・烏山頭ダムで開催された「八田與一技師没後82年慰霊祭」に出席し,八田技師の台湾に対する貢献に謝意を表した。本稿では,頼副総統のスピーチの要約と八田技師の足跡を紹介したい。

 頼副総統は慰霊祭における挨拶で,「今日の台湾,日本両国の関係は,全てがこの烏山頭ダムから始まったと言えましょう。今から百年前,八田技師の専門知識と勇気ある心により,この烏山頭ダムは建造されました。台湾政府と人民を代表し,心から感謝申し上げたいと思います。今日の台湾の農業,工業の発展があるのもこのダムからの水が用いられた結果です。ダムから供給された水は,農業用の灌漑,飲料水のみならず,南部サイエンスパークの半導体生産にも用いられています。

 両国の関係は,コロナ禍や震災などに遭遇した時も,互いに助け合うことに繋がって行きました。更に,インド太平洋地域の平和と安定も両国が数十年をかけ,少しずつ少しずつ創りあげてきた結果です。両国は今後とも各方面で協力し,経済の繁栄とインド太平洋地域の平和と安定に貢献して行きましょう」と述べた。

 また副総統は,「岸田首相はG7サミットにおいて,“台湾は世界の安全保障にとって極めて重要であり,武力による台湾海峡の現状変更には強力に反対する”と述べました。故安倍晋三元首相も“台湾有事は日本有事”との考えを示しました」と述べ,その上で,「私は5月20日に蕭美琴副総統ともに総統就任を宣誓します。今後とも台湾と日本両国の関係がより緊密になるよう,先ず第1に,両国民の交流において,観光客の数がコロナ禍以前に回復することに期待します。第2に,TSMCが既に熊本工場を設けましたが,これは非常に良い両国間の架け橋となりました。両国の産業が更に進化し,経済的繁栄を創造できるように期待します。第3に,“台湾有事は日本有事”ですが,“日本有事も台湾有事”です。両国が協力し合い,インド太平洋地域の一層の平和と安定を築いてゆくことを期待します」と述べた(出席八田與一紀念會 賴清德:盼台日觀光人數回復到疫情前)。

 その後,頼副総統と慰霊祭に参列した要人は,八田技師の銅像に献花し,改めて敬意と感謝の意を示した。台湾政府の高官や日本の台湾交流協会台北事務所片山和之代表(大使格)と八田與一技師の孫である八田修一氏の他,八田與一の妻である外代樹(とよき)夫人側の遺族が初めて慰霊祭に参列した。私事で恐縮ながら,筆者も昨年10月に八田技師の銅像前で黙祷し,両国に対する多大な貢献に謝意を表した。

嘉南大圳の父

 1910年,八田與一は東京帝国大学土木科を卒業後,台湾総督府土木局で「技手」を担当し,4年後に「技師」に昇格した。最初に与えられた任務は「桃園大圳」の建設プロジェクトであり,その後,台湾で面積が最も広い嘉南平原の水利建設の可能性調査を行った。その約2週間後,八田は「官佃渓埤圳計画」を総督府に提出した。「圳(しゅう)」とは,「田畑の間に水を通す用水路」の意味であり,「大圳」は大規模な用水路を意味する。「埤圳」とは,「ため池の堤高を高くして貯水量を増やし,埤と埤をつなげるための水路」の意味である。

 八田が考案した「官佃渓埤圳計画」は,大型貯水池を通じ用水路の水で灌漑し,雲林,嘉義,台南を含む嘉南平原の用水問題を解決するものである。この計画で必要とする経費については,1900万円から4200万円までの3つのプランを提案した。これは当時の台湾総督府の総予算の5分の1から3分の1に上る金額である。当時,日本は第一次世界大戦に参戦したため,財政不足の最中にあり,この計画は却下された。

 しかし,その後大きな転機が訪れた。日本は,第一次世界大戦の好景気(大戦景気)で米の消費量が急増したが,工業労働者として農村から都市部への人口流出が起きた結果,農家における働き手が著しく減少し,米の生産量も伸び悩んでいた。このため,米不足と米価の急騰により「1918年米騒動」が勃発,責任をとった寺内正毅内閣は総辞職し,原敬内閣へと政権交替した。1919年,原内閣1911年に提出された「官佃渓埤圳計画」に着目,新たに審査した結果,植民地台湾の水利施設の整備により,嘉南平原から産出した米穀で日本米穀の安定供給確保ができることを認め,同計画を承認するに至った。

烏山頭ダムと嘉南大圳プロジェクト

 1920年9月,総額4200万円の嘉南大圳プロジェクトが正式に着工し,八田は曽文渓の支流官佃渓に巨大貯水池「烏山頭ダム」の建設に着手した。付近には「烏山頭トンネル」や暗渠を掘り,曽文渓からより多くの水源を烏山頭ダムに引水した。烏山頭ダムは堰堤盛土の高さ56m,堰堤頂部の長さ1,273m,最大貯水量1億5,000万㎥,満水面積6,000ヘクタール,堰堤付近水深47mであり,セミ・ハイドロリックフィル工法(半水成式工法)で建設された。蒸気機関車で土石をダムの上側に運び,土石を下した後,強力な水柱を噴射させた。この工法は烏山頭ダムがアジアで唯一の事例であり,それ故,土木学界ではこの工法を「八田堰堤」と命名した。また,烏山頭ダムを空中から鳥瞰すると,サンゴの形になっているため,当時は「珊瑚潭」とも呼ばれた。建設にあたり,八田と同僚の技師は調査のため米国を訪問し,蒸気ショベル,ブルドーザーなどの近代的大型重機を調達した。

 烏山頭ダムが完成し貯水ができたあと,続く課題は給水の分配であった。水をダムから送り出した後,導水路を経て,「北幹線」と「南幹線」と分け,北港渓以南の約9万8000ヘクタールの嘉南平原を灌漑した。しかし,烏山頭ダムの貯水量だけでは需要を満たすことができず,北幹線の北の濁水渓の水を引いて「濁幹線」と称し,北港渓の北の約2万2000ヘクタールの農地も灌漑できるようにした。嘉南大圳の水道は計1万6000キロに達し,雲林,嘉義,台南の3つの県に横たわり,灌漑面積は約15万ヘクタールに達した。

 水の流れが特殊地形や障害物に遭遇すると,その克服すべき課題を解決する必要がある。水路が山に直面した場合,トンネルを掘って水を流す。川に直面した場合,河川の上に「渡槽橋」と呼ばれる用水橋を建設し橋梁の上に水を流す方法を採用した。嘉南大圳の北幹線の最初の「渡槽橋」は亀重渓を横断するために「亀重渓渡槽橋」と呼ばれた。橋梁の鋼材には,今でも当時(100年前)の日本本土の鋼材企業のロゴマークを確認することができる。

 烏山頭ダムと嘉南大圳の建設を終えたプロジェクトチームは,解散前にプロジェクトリーダーである八田の銅像を建立することを提案した。記録によると当初,八田はこの提案を固辞したが,最終的には堅苦しい銅像ではなく,作業服と作業靴を履き,くつろいだ自然体の銅像とすることを条件に受け入れた。右手は頭にあてているのは,ダム建設で困難に直面した時に,髪を触って思考する様子だ。また八田はヘビースモーカーのため,左の手はライターを触っている。銅像は日本で鋳造され,1931年7月に烏山頭ダムの現在の場所に設置された。

大洋丸の撃沈と外代樹の殉死

 1942年5月8日,八田は日本政府からフィリピンに派遣され,綿花栽培の灌漑システムの視察に赴いたが,乗船した「大洋丸」が五島列島付近で米国の潜水艦「グレナディアー」に撃沈された。八田の六女・成子は「死んでいるのか,生きているかも分からなかったが,7月初め頃,2カ月も海で流された遺体が漁民によって発見された。父の胸のポケットには羊皮の手帳が入っていて,海水に長く浸かっていたが,住所を確認すことができた」と語っている。八田の葬儀は石川の故郷,台湾総督府,嘉南大圳付近で執り行われ,遺骨は八田の第2の故郷である台湾に埋葬された。

 妻の外代樹は戦時中に空襲を避けるように,台北の官舎から烏山頭宿舎に移り住み,2男6女を育てた。しかし,1945年8月に終戦を迎え,台湾在住の日本人全てが帰国する中,外代樹は9月1日の台風の日の早朝,子供がまた熟睡中に,烏山頭ダムの放水口に身を投げた。自らは台湾に埋葬された八田の傍に永遠に寄り添うことを選択したのだった。

[主要文献]
  • 古川勝三『台湾を愛した日本人(改訂版):土木技師 八田與一の生涯』2009年。
  • 渡辺利夫『台湾を築いた明治の日本人』産経NF文庫,2021年。
  • 斎藤充功『百年ダムを造った男: 土木技師八田与一の生涯』時事通信社,1997年。
  • 胎中千鶴『植民地台湾を語るということ:八田與一の「物語」を読み解く』風響社,2020年。
  • 許光輝監修,平良隆久著『小学館版学習まんが 八田與一:東洋一のダムを建設した日本人』小学館,2011年。
  • 北國新聞社出版局編『回想の八田與一:家族やゆかりの証言でつづる』北國新聞社,2016年。
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3418.html)

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