世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
真実を見失った現代社会:英国郵便局長冤罪事件の背景にあるもの
(早稲田大学・文京学院大学 名誉教授)
2024.05.13
2024年の初め,英国民放テレビ局ITVで,1999年から2015年にかけて生じた郵便局長冤罪事件をテーマにしたドラマが放映された。放映されると,この事件に再び関心が集まった。そして,批判の矛先は,英国政府や欠陥のある会計システムを納入した富士通の英国子会社「富士通サービシーズ」(2001年にICLから富士通サービシーズに名称変更)に向かった。
スナク首相は,1月10日議会下院で「英国史最大となる誤った判断の一つだ」と述べ,冤罪に問われた人々の有罪判決の破棄や,被害にあった人々を救済するための賠償を迅速化する新法を導入すると表明した。
その後,議会その他の公聴会で,富士通サービシーズの現地トップや当時の担当者が証言して冤罪事件への関与を認めた。日本の親会社富士通も事件について謝罪をし,被害者への補償に言及した。2024年3月には,英政府が横領罪などで不当に起訴された郵便事業者らの有罪判決を取り消し,生活再建を支援する法案を発表した。
事件の経緯は,次の通りであった。1996年に,ICLの会計システム「ホライゾン」を全英の郵便局(民間の経営)に納入することが決まり,1999年末から実際の運用は始まった。
納入当初から,窓口の現金が会計システム上の残高よりも少なくなる問題が頻発した。この不具合や原因不明のエラーが,郵便局長からポストオフィス社(地域の郵便局を統括する政府所有の郵便窓口事業の統括会社)に報告されたが,同社はシステムの非を認めなかった。2000年代から2010年代にかけ,郵便局長らは当時の担当大臣に調査など対応を繰り返し求めたが,政府ではなくポストオフィス社の問題として,取り扱ってもらえなかった。
ポストオフィス社は,事実を調査することなく,契約を打ち切るのみならず横領や不正経理をしたとみて,郵便局長らに補填を要求した。局長らは借金などで差額を埋めることを余儀なくされた。なかには,破産したり,補填できなかったため収監されることもあった。自殺者は4人も出た。2015年までに700人以上の局長らが罪に問われ,疑いをかけられた人は3500人以上にものぼった。
ポストオフィス社は刑事訴追の権限(公訴権)を持ち,十分な証拠もなく立場の弱い局長らを次々に訴追した。誰もこれを止めなかった。また,裁判所も証拠を精査せずに有罪判決を下し続けた。
ICLは1968年に,3社の合併によって設立された英国の国策コンピュータ会社であった。富士通は1981年にICLと技術提携した。英国政府から,通産省(現・経産省)を介して日本企業にICL立て直しの要請があり,それに応えたものであった。当時,日米間のみならず日欧間でも経済摩擦が生じていた。経済摩擦の解決策として,日米間では日本企業の自主規制が求められた。日欧間では進んだ日本企業の技術を,欧州企業に移転する産業協力という形で決着が図られた時代背景があった。
富士通は1990年に,1890億円を投じてICLの株式の80%を取得し,1998年に同社を完全子会社化した。買収後も多くのICL役員が残り,親会社である富士通の統制がききにくかったとされる。ICLは英国の歳入関税庁,労働・年金庁,国防省,さらには公益事業体と契約を結び,英国政府との結びつきを強めた。一方,富士通は手薄だった欧州事業をこのM&Aにより,一気に拡大する戦略とみなした。
2000年頃,1998年から北ウエールズの町の郵便局長として働いていたアラン・ベイツがシステムの問題を明るみにした。2003年,彼はポストオフィス社の方針に従うことを拒否したため,契約を打ち切られた。ベイツらはその後十分な証拠を集め,2009年9月に「郵便局長のための正義連合(JFSA)」を結成し,集団訴訟を提起した。この係争事件が,ITVで放映されたドラマのタイトル「ベイツ氏対ポストオフィス社事件」となった。
2019年,日本の高等裁判所に相当する英国高等法院は,会計システムの不具合を認めた。そして,ポストオフィス社に対して,郵便局長555人に5775万ポンドの支払いを命じる判決を下した。その後,元郵便局長らに対する有罪判決は次々に取り消された。
2020年に政府が設けた調査委員会は,2024年内に調査を終え報告書をまとめる予定である。その時点で,システムにバグや欠陥があるのを知りながら,ポストオフィス社がなぜ郵便局長を訴追するのを止めなかったのか,真相が明らかにされると思われる。
子会社の情報隠蔽を見過ごし,子会社が会計システムの重大な欠陥問題点を知りつつポストオフィス社に隠して同システムを納入していたなら,親会社の富士通のガバナンスが問われ,責任は免れない。富士通にとって,こうした公共部門の問題発生によるイメージ悪化の影響は大きく,英国や欧州での事業展開に悪影響を及ぼしかねない。日本企業にとって,国際ビジネスのリスクとガバナンスの問題が改めて問われる事件といえる。
この事件が発生した新ミレニアムを迎える時期,英国では国策としてIT・デジタル化を進め,新しいIT・デジタル技術の導入を積極的に進めていた。その過程で,最新のコンピュータやIT・デジタル技術,新たなシステムを導入するための政権の政策実現と企業との癒着構造が生じた可能性は否めない。
しかし,いくら新たな技術の導入を優先したからといって,常識的には郵便局長のような地域に根差した善良な市民が何百人,何千人も同じように不正を働くとは到底考えられない。善良な市民を犠牲にしてまで,新たな技術やシステムを導入しようとした背景には,人間の考えや感情よりも,科学や技術を信奉し,合理性や効率性を優先する価値観が現代社会に浸透したためではないかと,危惧せざるを得ない。
関連記事
川邉信雄
-
[No.3620 2024.11.18 ]
-
[No.3502 2024.07.29 ]
-
[No.3270 2024.01.22 ]
最新のコラム
-
New! [No.3647 2024.12.02 ]
-
New! [No.3646 2024.12.02 ]
-
New! [No.3645 2024.12.02 ]
-
New! [No.3644 2024.12.02 ]
-
New! [No.3643 2024.12.02 ]