世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
インフレタックスに向かう日本
(元野村アセットマネジメント チーフストラテジスト)
2023.10.02
成長余力に乏しい日本経済
内閣府推計によれば,日本経済全体の需給バランスを示すGDPギャップは,4-6月期には+0.1%と,わずかながら2019年7-9月期以来のプラス(=需要超過)となった。また,供給能力の成長力を示す潜在GDP成長率は,足元で年率+0.5%とされている。日本の潜在GDP成長率は1980年代末には4%程度であったが,バブル崩壊と共に90年代に大きく低下して,2000年代初めには1%程度となった。その後,小泉構造改革やアベノミクスによっても,潜在GDP成長率は高まっていない。
足元で需要不足が解消された一方で供給能力の伸びが小さいことは,今後金融・財政政策による景気刺激を続けても,インフレ率は上昇しやすい一方,実質GDP成長率は高まりにくいことを示唆している。
累増する政府債務
1990年以降,バブル崩壊を含めて日本経済は6回の景気後退を経験している。景気後退に陥ると,税収が減少する一方で景気テコ入れのために財政刺激策が取られ,財政収支は悪化した。IMF(国際通貨基金)のデータによれば一般政府(国,地方政府,社会保障基金の合計)の元利払いを除いたプライマリー収支のGDP比は1990年には3.2%の黒字だったが,1993年に赤字に転じ,1998年には赤字幅はGDP比8.7%まで拡大した。その後,景気回復過程で赤字幅が縮小することはあったが,黒字には至らず,2022年もGDP比7.5%の赤字であった。財政赤字が続いてきたことで政府債務は累増している。一般政府総債務残高のGDP比は1990年には63%であったが,1997年に100%,2010年に200%を突破し,2022年には261%に達した。
上に述べたように需要不足が解消されたことから,景気を刺激するための財政拡張策を止めて財政再建に軸足を移すべきタイミングだと考えられる。しかし,物価高で所得が実質的に目減りしている人々が多く,世論調査などでも景気回復や経済成長を求める声が多い中,財政引締めへの転換は政治的に容易ではないだろう。
名目GDP成長率やGDPデフレーター上昇率を大きく下回る国債利回り
物価上昇が続いている中,金融緩和政策の見直しが取り沙汰されているが,日本銀行は見直しに慎重な姿勢を続けている。長短金利操作(YCC)による長期金利の上限を徐々に引上げているが,それでも足元で10年国債利回りは0.7%程度に留まっている。一方,4-6月期の名目GDPは前年同期比+5.1%,GDPデフレーターは同+3.5%と大きく伸びを高めている。
このように国債利回りが名目GDP成長率やインフレ率を大幅に下回る状態が続けば,財政をさほど引締めずにプライマリー収支が赤字のままでも政府債務のGDP比を減らすことが可能になる。こうした高インフレと低金利を維持して政府の債務負担を実質的に減らす措置を,インフレタックスと呼ぶ。物価上昇に対して,賃上げを図って家計所得の実質的な目減りを止めれば,景気悪化を防ぎながら税収増も見込める。政府や日銀がどこまでそうした意図を持って動いているのかは定かではないが,ある意味,巧妙な方策にも見える。
しかし,インフレタックスには落とし穴がある。日本で金利がインフレ率を下回る状態が続くと,円建て金融資産の実質価値が低下する。つまり,インフレタックスの負担は円建て金融資産の保有者が負うことになる。ただ,円建て金融資産を売却して金利がインフレ率を上回る国の資産を購入すれば,インフレタックスの負担を回避することができる。例えば,米国の5年超の期限のインフレ連動国債の利回りは全般的に2%を超えており,インフレ率を上回るリターンが保障されている。こうした状況のもとでは,金融市場で円建て資産から外貨建て資産への乗り換えが増えて一段と円安になり,円安とインフレのスパイラルを招きかねない。そうなると円安やインフレを止めるためには大幅な利上げが必要となり,景気は失速し,政府の財政状況はかえって悪化する。日本は対外純債権国であり,政府債務のファイナンスを海外に依存していないので,政府債務が増大しても破綻することはないと言われてきた。しかし,円建て資産の実質価値低下の懸念から海外への資本逃避が増えれば,そうも言ってはいられない。最近,若年層を中心に外貨建て資産の積立投資が増えていることは,静かな資本逃避の進行を示しているのかもしれない。
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