世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3061
世界経済評論IMPACT No.3061

中国バランスシート不況論争:昨日の日本は明日の中国か

結城 隆

(多摩大学 客員教授)

2023.08.07

 リチャード・クー(辜朝明)氏が中国で注目されている。6月末,同氏は香港の東吴証券の招きで講演を行い,90年代から2000年代初めにかけての日本経済を踏まえ,中国経済もバランスシート不況(中国では「資産負債表衰退」と言う)に陥りつつあるとの懸念を表明した。同氏は,バランスシート不況の処方箋は,迅速,十分かつ持続的な財政刺激策であると提唱したが,前段の部分が,中国の金融業界のエコノミストや経済学者の議論を呼び起こした。

 不動産市況の冷え込み,消費の伸び悩み,民間投資の落ち込み,企業収益の悪化など中国経済の回復の足取りは不確かなものだが,こうした中国経済の状況が90年代の日本と重なり,「昨日の日本は明日の中国か」という懸念を刺激したのだろう。議論の盛り上がりを踏まえ,7月6日,李強首相は,金融・経済・産業の専門家を交えた座談会を開催し,現下の経済状況の分析と問題に取り組むべき処方箋について意見を徴収した。この座談会には,財政科学研究院,粤開証券や広東証券,精華大学五道口金融学院,浙江大学,中誠信国際信用評級研究院,中国電子情報産業発展研究院,上海交通大学といった中国トップレベルのシンクタンク,大学のチーフエコノミストや研究トップが出席した。

 リチャード・クー氏の説くバランスシート不況論とは,バブルが崩壊し,資産価値が大幅に下落した結果,家計は負債負担の総体的な増加から消費を抑え込み,企業は資産の減価に応じた負債の縮減を指向するようになることから,経済は負のスパイラルに落ち込み,デフレが加速するというものだ。確かに,中国経済の姿と重なる面はある。しかも,当時の日本は中国と同様日米経済摩擦問題(半導体貿易摩擦)に直面していた。上記の座談会では,こうした日本との類似性は認めるものの,むしろ相違点を強調する傾向が目立った。

 この座談会では,中国と日本との相違点が三つ指摘された。まず,中国経済はゼロコロナ政策を含む3年間に及ぶパンデミックの打撃からの回復途上にあり,まだまだ不安定な面があること。次に,不動産を含む資産価値の低下はごく限られており,バランスシートの資産面での縮減は経済全体で見ればそれほど大きくないこと,そして日本の不動産バブル崩壊の引き金となった1990年の金利引き上げとは裏腹に中国の金融当局はむしろ金融緩和を進めていることである。

 さらに中国の成長余力も強調された。すなわち,中国は日本と異なり,都市化率は2022年で65%と90年代初頭の日本の77%に比べまだ低水準にあり,経済成長の伸び代が残されていること,実際の資金調達コストは依然高いことからまだまだ引き下げや改善の余地があること,財政面での制約は中央政府について見れば当時の日本に比べまだそれほど厳しくないことである。さらに,当時の日本は過剰な借り入れによる過剰生産能力の問題を抱えていたが,中国の場合,2016年以降「三つの過剰(過剰生産能力,過剰在庫,過剰債務)」の是正に取り組んできたこと,といった相違点も指摘された。中国経済の規模と縦深性に加え,バランスシート問題に対する6年間に及ぶ取り組みを勘案すれば,中国がバランスシート不況の状態には陥っていないというわけだ。

 むしろ中国が抱える問題は,米中対立の激化により国内およびグローバル・サプライチェーンが混乱しつつあること,この事象に対し多くの企業家や消費者が先行きの懸念を抱いていること,中小零細企業にとって,資金調達コストは依然高く,かつ借り入れにあたっても制約がまだまだ多く,その結果投資意欲や資金需要が削がれていることだという。そして,中国政府は現下の問題に対し,様々な政策ツールを有している。金融政策の余地はまだ大きい。中央政府の財政にも余力がある。さらに言えば,様々な制度改革の余地もある。これらを動員することにより,景気の先行きに対する企業と消費者の信頼と期待を着実に高めることが,喫緊の課題であると結論づけている。

 こうした短期的な対策に加え,長期的な視野に立った構造改革の必要性も指摘されている。バランスシート不況論は日本の失われた30年を説明する上で依然有効なモデルであるだけでなく,中国経済の問題にとっても明確かつ説得的な説明ツールであるという見方に立つ。とくに少子高齢化は日本と酷似しているうえそのスピードは速い。この問題は「豊かになる前に歳を取ってしまう」といった切実な問題を提起しており,消費の手控えやバランスシート縮減(負債減らし)に向かう大きな背景でもあるという認識だ。

 この観点から,中国が取るべき対策として目先の政策ツールに頼るだけでなく,新たな成長路線を構築するための構造改革が不可欠であるという主張もなされている。とりわけ中国を取り巻く環境が100年に一度という大きな変革期にあることを踏まえれば大胆な構造改革が必要だというわけだ。すなわち,①国有資産・国有企業の改革を通じた国有部門の利益や戦略的な成果を国民経済全体が共有できる仕組みを作ること,②農村の土地制度の改革により,土地収用に伴って発生した利益や便益を農民に還元する仕組みを作り,農民の資産と購買力を拡充すること,③政府と企業部門が主体となった所得分配システムにおいて労働分配率をより高めることにより消費拡大につなげること,④これらの構造改革を推進するため国の企業や経済活動に関わるガバナンスのあり方も変えることである。

 「バランスシート不況」論争を機に,中国政府は,矢継ぎ早に経済対策や構造改革の方針を打ち出し始めた。民営企業の活力を引き出すための「民営企業31条」の発布,自動車購入促進,既存の住宅ローンの低金利ローンへの借り換え促進,地方政府特別債発行の加速,各地での消費券発行など7月半ば以降着手された対策は多岐にわたる。この成果は今月以降徐々に表れてくるだろう。「昨日の日本」が中国で再現されるようなことはあってはならない,という強い思いと内外情勢に対する危機感が今回の論争と政府の矢継ぎ早の対策の根幹にあるのだと思う。そしてこれらの対策は自ずと中国経済の構造改革にもつながってゆく可能性があるのではないだろうか。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3061.html)

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