世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2872
世界経済評論IMPACT No.2872

地政学リスクをチャンスに変える:日本企業の「逆張り」戦略

安室憲一

(兵庫県立大学 名誉教授・大阪商業大学 名誉教授)

2023.03.06

 1970−80年代,「カントリー・リスク」が盛んに論じられた。まだ社会主義勢力が政治権力を握っていて,外資に対する反発が強く(経済侵略論),国有化の危険もあった。カントリー・リスクに対応するため外資系企業は地元から原材料を調達し,現地従業員を雇用し,現地国の市場で販売し,さらに経営幹部の現地化(経営現地化)に努めた。外資系企業は「地元企業」に姿を変え,親離れした子会社として経営した。こうして「多国籍企業」(Multi-National Company:各国子会社の集合体)が誕生した。その理想型はスイスのネスレである(高橋浩夫(2019)『すべてはミルクから始まった』同文舘出版)。

 その後,中国の改革開放(1978年)やソ連の崩壊(1991年12月)などを経て,社会主義勢力が後退し,世界は開放に向けて前進した。その結果,1990年代以降グローバル経済が出現した。このグローバルな世界を前提に新しい産業,とくに半導体産業や情報産業が発展し,激しく競争するようになった。各国企業は強みを生かして専門分化を遂げ,グローバルなネットワーク(相互依存体系)を形成した。伝統的産業である縫製加工すら,低賃金を求めてグローバルなネットワークを形成した。このグローバル経済で最も大きな成果を上げたのが新興国の中国である。

 ところが2020年を過ぎると,コロナの流行もあって,「地政学リスク」が叫ばれるようになった。現在の覇権国である米国(とその同盟国)の勢力圏に対し,新興国である中国が台頭し,米国中心の国際体制に異議を申し立て始めた。いわゆる「トゥキディデスの罠」が作用し始めた(クレア厶・アリソン(2017)『米中戦争前夜』ダイヤモンド社)。新興国が「自分が参加していない場所で決まった国際ルールは守る義務はない」と考えても,既存の勢力から見れば,「敵意のあるルール違反」と看做される。「地政学リスク」が「カントリー・リスク」と異なるのは戦争の危険性を伴うことである。

 「地政学リスク」の出現は,グローバル・ネットワークを根底から脅かした。グローバルな相互依存システムは,人体のように一箇所でも破断すれば,全体が機能停止する。半導体産業のように,日本やオランダが製造設備や原材料(ウエハーや化学薬品など)の輸出を停止すれば,中国の半導体工場は停止してしまう。中国は半導体なしでは携帯電話も作れない(日本経済新聞朝刊,2023年2月15日)。この事態を受けて電子部品から繊維製品に至るまで,中国脱出が始まった(日本経済新聞朝刊,2022年11月3日,12日)。日本も米国と協調の上で対中半導体規制の導入に踏み切った(日本経済新聞朝刊,2023年1月29日)。軍事転用が可能なあらゆる高度技術製品が規制の対象になるだろう。その結果,グローバ展開した企業の多くが,資産や製造技術の友好国への移転(フレンドショアリング)や本国への回帰を急ぐことになる。この結果,「地政学リスク」の最大の被害者は「挑戦者」(中国)になる。これが「地政学リスク」のパラドックスである。

 それでは中国はどのように行動するだろうか。逃げ出そうとする外資を呼び止め,新規投資を勧誘するだろう。しかし一度「地政学リスク」に怯えた企業は直ぐには戻らないだろう。

 では,どうするか。以前親密だった近隣諸国の企業に働きかけてみる。とくに日本は,米国に比べ,中国批判のトーンが小さい。例えば,河野太郎氏は2020年6月,宮城,福島両県で目撃された気球について「安全保証に影響はない」を理由に,どう対処するかを問われると,「気球に聞いてください」と答えた。中国との対立を避けたのである。

 他方,米国の対応は違った。米国で撃墜された気球は大気圏外スレスレのところを飛行し,最新鋭戦闘機F-22による空対空ミサイル攻撃でも破壊は難しかったという(2発発射,1発目は失敗,2発目で撃墜)。宇宙空間では国家主権を主張することはできない。中国製の気球は主権の及ぶギリギリの高さ(18km)を飛行しており,撃墜すれば国際問題になる恐れがあった。中国はそれを承知で米国にチャレンジしたのであろう。撃墜できなければ米国が恥をかくことになる。ということは,日本の自衛隊の技術では気球の排除はできなかっただろう(YAHOOニュース,2023年2月20日)。「気球に聞いてください」は正解なのである。

 早速,中国は行動に出た。習近平国家主席は2022年12月中旬の経済分野の重要会議「中央経済工作会議」で,「外資の導入と利用を強化する」と宣言した(読売新聞オンライン,2023年2月17日)。これ以降,中国要人の訪日が相次いだ。2023年2月7~11日,大連の冷雪峰副市長らは,日本電産やオリックスを訪問した(日本経済新聞朝刊,2023年2月23日)。それ以外では,2022年12月以降,深圳市や広州市の幹部が日本企業を表敬訪問,新規投資や技術協力を要請した。その結果,日本電産は2023年の3月,大連市でEV用自動車部品などの新たな開発センターと工場を本格稼働させる(日本経済新聞朝刊,2023年2月14日)。パナソニックHDは,中国家電市場の成長を見込んで,2024年までに500億円以上を投じ,家電や空調機器など10箇所以上の工場を新設する。2024年までに中国での売上を1兆円に高める計画という(日本経済新聞朝刊,2023年1月6日)。典型的な「逆張り」戦略といえる。

 以上のように,「地政学リスク」に敏感なのは「グローバル戦略」を採用する企業である。他方,「マルチ・ナショナル」戦略を採用する企業は,中国投資を安全と考えている。中国市場に根を張り,国内で自己完結する経営を目指し,経営現地(人)化に務める限り,中国政府や地元社会から歓迎され,永続が可能となる。どの国の政府にとっても,雇用の確保と技術革新は不可欠だからである。「地政学リスク」が叫ばれるほど,「多国籍戦略」(各国子会社の集合体)が見直される可能性がある。日本企業は,一度立ち止まって,ネスレのような地元中心主義の経営スタイルを手本に,「地政学リスク」をチャンスに変える方法を考えるべきだろう。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2872.html)

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