世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
現在でも安全通貨の地位を維持するスイスフラン
(慶應義塾大学総合政策学部 教授)
2022.11.14
スイスの中央銀行(スイス国立銀行)のトーマス・ジョルダン総裁は,2022年10月初めの地元紙インタビューで現在は「ドルとスイスフランの2つの通貨が世界の安全通貨だ」と発言した。
そもそも安全通貨(セーフヘイブン・カレンシー)とは何か。一般的には,世界で経済危機や経済不安定化が起きると,投資家は損失を回避するために金融リスクを減らそうとするが,そうした局面で投資家が好んで買う通貨のことだ。
安全通貨と言えば,長くドル,スイスフラン,日本円が安全通貨とみなされてきた。ドルは基軸通貨であり世界にとって常に安全通貨だ。米国が世界最大の経済規模と厚みのある多様な金融資本市場を保有していることが背景にある。世界の中央銀行は外貨準備資産として圧倒的にドルを預金や国債などで保有している。
しかしドルは変動が大きくリスク分散のためにも,ドルに対してスイスフランと日本円が安全通貨として機能してきた。スイスと日本の共通要因としては,長く低インフレが続いてきたこと,恒常的な経常収支の黒字と対外債権国であること,政治や金融市場が比較的安定していることなどが挙げられる。
米国が容認するスイスの為替介入
日本円の場合,過去を振り返ると,リーマンショック前後の2017年から円高傾向が続き,2011年3月の東日本大震災で日本経済が景気減速とエネルギー不足に苦しんだ際も円高が進行し1ドル=70円台まで超円高が進んだ。その後,大幅な金融緩和により2015年に125円程度まで円安が進んだが,2017年以降は110円前後で推移していた。だが今年3月から円安が急進し,現在は145~147円前後で推移し輸入物価の高騰に拍車をかけている。
一方,スイスフランの動きは興味深い。対ドルでは2000年代からスイスフラン高傾向にあり,1ドル=0.88スイスプラン辺りまで高値が進んだが,その後1ドル=1スイスフラン前後で推移している。ユーロに対しては,2007年頃から趨勢的にスイスフラン高が進んでいる。2011年にユーロ高を懸念して,スイス国立銀行は「1ユーロ=1.2スイスフランよりもスイスフラン高になると経済に長期的な打撃があるため,1.2スイスフランを下限としてこれより高値を容認しない」と表明した。その後下限政策は2015年1月に撤廃されており,現在ではスイスフランはこれよりもはるかに高く,1ユーロ=0.97スイスフラン前後で推移する。
スイスは長く経常収支の黒字や大幅な貿易黒字を計上しており,スイスフランは恒常的に需要が高く,スイス国立銀行は頻繁に為替介入してきた。
米国財務省の半期為替報告書で監視リストに入ることもあり,為替介入が問題視されたこともあった。しかし,たとえば直近の2022年6月に発表された為替報告書では,米国が貿易相手国・地域に対して問題視する3つの条件——すなわち①対米黒字の規模,②経常黒字の規模,③一方向で持続的に実施される為替介入——全てを満たしたのはスイスだけだったが,スイスを監視リストに入れていない。日本,ドイツ,韓国,シンガポール,台湾など2つ条件を満たした国や1つだけ条件を満たした中国などは監視国入りしている。
なぜスイスだけが入らないのか。実は,スイスは2021年から米国財務省と協議を重ねており,対外的にも長くスイスの特殊性を訴えてきた。スイスは比較的低い法人税率や開けた経済環境もあって薬品や商業ビジネスなど多数の多国籍企業がスイスに本拠を設けてスイスの取引所にも上場している。これらの活動はスイス統計に反映されるが,大半の活動はスイスと無関係な世界で行われていても,統計上スイスの経常収支として記録される統計上の歪みがあるという。さらにスイスの経常収支はスイスGDP対比で大きいが,世界の経常収支(絶対額)の大半は黒字側ではドイツ,日本,中国,赤字側が米国によって決まっており,スイスの影響は限定的だ。しかも小国開放経済なため為替レートの変動が国内インフレに他の国よりも大きな影響を与えるため,物価安定のためにも為替介入を余儀なくされている。これまで外貨を購入しスイスフラン高圧力を抑えてきたが,それでも長く「著しい過大評価」が続いてきたという。
ようやくフェアバリューを実現したスイスフラン
スイスフランの為替レートは,今年入り後に米国の金利上昇によって多くの国の通貨が対ドルで通貨安になっているのと対照的に,金利差によってあまり影響を受けていない。米国やユーロ圏の政策金利や10年物長期金利などは,スイスの金利を超えているが,スイスフランは対ドルであまり下落していないし,対ユーロではむしろスイスフラン高が進行している。
ちなみに直近の政策金利は米国が3.75~4%,ユーロ圏(メインリファイナンスオペ金利)が2%,スイスが0.5%である。10年物国債利回りは,米国が4.1%程度,ユーロ圏3%(内,ドイツ2.3%),スイスは1.2%だ。つまり金利はスイスが相対的に低いが,対ドルでスイスフランは年初来8%下落しただけで,日本円の28%,英国ポンドの16%,韓国ウオンの18%など多くの通貨価値が急落する中で,特異な存在だ。しかも,ユーロ圏はスイスより金利が高いがスイスフラン買いが進む。
ジョルダン総裁は,「スイスフランは長く過度に割高の状態が続いてきたため,スイス中銀による為替介入が必要だったが,現時点ではスイスフランはもはや割高ではない」と発言している。つまりスイスフランは割高でも割安でもないフェアバリューということになる。そのため為替介入はほとんどする必要がないようだ。
何故スイスは大幅安にならず安全通貨のステータスを維持できているのだろうか。ひとつは,スイスの経常黒字や貿易黒字が現在も比較的大きいことにあるようだ。もうひとつは,先日スイス国立銀行幹部と話した際に指摘していたのが,2回にわたる利上げが影響しているという。スイスでは通貨高を阻止するために政策金利をマイナス0.75%とするマイナス金利政策を維持してきたが,2022年2月からエネルギー価格を中心に2%を越えてインフレ率が上昇を始めた。8月にピークの3.5%を記録して以来,低下傾向にあり10月には3%へ低下した。
スイスは物価安定を「2%未満のインフレで,デフレは容認しない」と定義する。インフレを抑制のために利上げが必要と判断し,2022年6月に0.5%幅の利上げ,さらに9月に0.75%幅の利上げによりマイナス金利を撤廃し,政策金利は0.5%へ引き上げられた。このとき市場の予想を超える思い切った利上げを行ったことやスイスの物価安定を達成するために強い行動をとるという強力なメッセージを送ったことが大幅なスイスフラン安になっていない理由のひとつではないかとスイス中銀は指摘する。スイスは今後もさらなる利上げの可能性を否定していない。
さいごに
スイスは国際競争力を心配していないのだろうか。主要貿易相手国の通貨を含む名目実効為替レートはスイスフラン高となっているが,スイスのインフレ率が他の国より低いため,実質実効為替レートではあまり高くなっていない。つまり国際価格競争力は十分維持できているとしてスイス中銀はあまり心配していないようだ。
むしろ大幅な通貨安になっていないだけに,スイスのインフレは通貨安によるインフレ圧力はほとんどない。これがエネルギー価格と通貨安でインフレ率が10%程度にも達するユーロ圏や英国との違いでもある。
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