世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3731
世界経済評論IMPACT No.3731

日本銀行のコミュニケーションの課題:データと国民の実感とのズレはなぜ生じるのか

白井さゆり

(慶應義塾大学 教授)

2025.02.17

 多くの中央銀行が利下げを進める中,日本銀行(日銀)は先月1月に3回目の利上げを行い,政策金利を0.5%とした。筆者は海外メディアから多くの取材を受けるが,世界と逆行する日本の金融政策は十分に理解されていないようだ。

 植田総裁は記者会見を通じて丁寧に説明しようと努めておられるものの,その説明や公表文をもとに,日銀の政策意図が「腑に落ちた」と感じる人は少ないと思われる。多くの企業,特に中小企業は,原材料費の高騰や人手不足による成長制約,国内需要の低迷に苦しんでいる。消費者もまた,食料価格や電気料金の高騰による実質賃金の伸び悩みにより,購買力が向上している実感を持てずにいる。足元ではやや改善の兆しが見られるものの,趨勢的に改善が続くかは未知数だ。

 こうした状況を踏まえると,「現在の経済・物価の見通しは概ね順調」であり,「賃金と物価の好循環が生まれつつあり,経済・物価の見通しがこのまま推移すれば,さらなる利上げがあり得る」との説明には,違和感を覚える人も少なくないだろう。

 日銀の政策スタンスが米国連邦準備制度理事会(FRB)と比べて理解しにくいのは,実際のデータや国民の認識としばしば乖離しているためである。ここでは,コミュニケーションギャップが目立つ3つの点を挙げたい。

 第一に,昨年12月の金融政策決定会合において,総裁は米国の関税引き上げの動向や3月から4月の労使交渉の結果など,さらなる情報を待ちたいとし,利上げの判断には時間がかかると示唆した。しかし,その後1カ月間で政策変更を正当化するほどの新たな情報はほとんどなかったにもかかわらず,1月の会合で利上げを実施した。実施するのであれば,12月に行っても不思議ではなかったはずだ。

 第二に,1月の「展望レポート」では,2024~25年度のインフレ見通しが大幅に上方修正された。総裁はこれを,円安による輸入物価や(天候不順が一因の)コメ価格の高騰といったコストプッシュ要因によるものと説明した。そうであるならば,公表文の中でもっと明確に示すべきだった。

 利上げ判断に至った理由も判然としない。日銀は「基調的なインフレは着実に2%に向けて上昇している」と強調しており,おそらくこれを利上げの理由として主張したいのかもしれない。しかし,この主張を裏付ける指標が何なのかは明らかにしていない。

 多くの中央銀行は,「全ての食料とエネルギーの価格」を除外して基調的なインフレの動向を評価する。一方,日銀は「生鮮食品」あるいは「生鮮食品とエネルギー」を除外した指標を重視しており,生鮮食品以外の食料を含めている。その結果,インフレ圧力が強く見える傾向がある。実際には,「全ての食料とエネルギー」を除いた日本のインフレ率は直近で1.6%にとどまり,上昇傾向はない。また,2%インフレ目標の安定的実現を判断するのに重要とされるサービスインフレも1.6%にとどまり,その約半分は外食,海外旅行パック旅行,宿泊費の価格上昇によるものである。基調的なインフレが上昇している兆しは見られない。

 第三に,実質消費,鉱工業生産,実質輸出はいずれも力強さを欠いている。設備投資は緩やかな上昇傾向にあるが,資本ストックや労働生産性を大幅に改善するほどの勢いはない。「経済と物価が見通し通りに実現する可能性が高まっている」とする日銀の主張は,十分な説得力を持って説明されたとは言い難い。さらに,「賃上げが消費者物価に反映され始めている」とよく力説しているが,実際には,多くの企業は生活費高騰や労働力不足により賃上げを余儀なくされており,因果関係が逆である可能性もある。

 コミュニケーション上の最大の課題は,その政策スタンスに関する判断にある。日銀は,「実質政策金利が実質中立金利を下回っている(あるいは政策金利が名目中立金利を下回っている)ため,金融環境は依然として緩和的だ」と強調する。中立金利を基準に金融緩和度合いを判断するのは一般的な手法であるが,コストプッシュインフレ状況において,この議論が妥当なのかは不透明だ。多くの企業は,金融環境をさほど緩和的だとは感じていない。なぜなら,実質金利がマイナスなのは,需要や経済活動の拡大よりも,原材料価格の高騰によって生じたインフレが原因だからである。

 世界では,地政学的リスクの高まりによりサプライチェーンの再構築が促されており,トランプ大統領による輸入関税率の引き上げが広がれば,日本のコストプッシュインフレが当面持続する可能性がある。

 こうした状況を踏まえれば,日銀は,日本のインフレが,弱い内需と労働力減少の中で生じているコストプッシュ型であることをより率直に認めるべきだろう。内需主導のインフレダイナミクスが欠如した環境では,インフレの予測は本質的に難しく,政策金利の影響もより限定的となる。

 利上げの主因が円安であることをもっと明確にしつつ,柔軟な金融政策で物価安定を目指していることを示すことが,国民や企業の理解を得る上で有効だろう。G20合意は競争的な通貨安を回避することを目的としているが,日銀が直面しているのは極端な円安をいかに抑制するかだ。しかも,超円安にもかかわらず,日本は貿易赤字を継続しており,円安が輸出数量の伸びに与える影響が限定的であることも明確になっている。

 日銀はデータと多くの人々の認識に寄り添った,より率直なコミュニケーションを行い,中央銀行として現実的に達成可能な課題に焦点を当てるべきではないだろうか。そのようなアプローチこそが,現在の時代に即した政策運営につながるだろう。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3731.html)

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