世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.4160
世界経済評論IMPACT No.4160

なぜタイやインドでできて,日本ではできないのか:決済インフラの現在地

白井さゆり

(慶應義塾大学 教授)

2026.01.12

 世界のデジタル決済は,いま静かに次の段階へ進もうとしている。

 スマートフォンのQRコード決済や即時送金は,単なる「便利な支払いサービス」ではなく,国家の金融インフラそのものとして再設計され始めている。その中心にいるのが,インドとASEANなどの新興国,そしてその動きを追いかける韓国である。

 日本は高度な技術を持ちながらも,設計の考え方の違いもあって,この国際的な流れから遅れ始めている。

 まずインドでは,即時送金システム「UPI」が,銀行や決済アプリの枠を超えた公共インフラとして整備している。どの民間アプリからでも,どの銀行口座にも即座に送金でき,QRコード決済も同じ基盤上で統一されている。

 重要なのは,誰でも利用できる開かれた仕組みとして設計されている点である。UPIは14億人の人口の幅広い層にまで浸透し,都市の小売店だけでなく,屋台や零細商店,地方都市や農村部でも日常的に使われている。背景には,国民共通のデジタルID(Aadhaar)や銀行口座開設促進策も実施され,銀行口座とモバイル決済を結びつける制度設計が,社会の隅々まで普及を後押ししたことがある。

 近年,この基盤は海外との連携にも広がり始めている。シンガポールやアラブ首長国連邦(UAE)では,現地の決済ネットワークとの接続が進み,一部の加盟店ではインドの決済アプリで支払える事例が登場し始めている。まず国内で統合を進め,その延長線上で国際接続へ発展している点が大きな特徴である。

 ASEANも同じ方向にある。タイ,シンガポール,インドネシア,マレーシアなどは,国内の即時送金やQRコード決済を国主導で共通化してきた。そのうえで,これらの仕組みを国同士で相互接続し始めている。たとえば,タイの利用者がマレーシアを訪れても,自国アプリで現地のQRコードを読み取り,為替は自動換算され,そのまま支払いが完結する。高い手数料を払って国際送金を行う必要はない。スマートフォン一つで越境決済が動く世界が,すでに実装段階に入っている。

 インドとASEANは,国内制度や技術基盤を整備する初期段階から,将来の国際接続も視野に入れた設計を進めてきた点が重要だ。

 日本の状況はこれとは大きく異なる。銀行間送金の信頼性やシステム品質は高いものの,即時送金の運用やサービス水準には銀行ごとの差が残っている。またQRコード決済も,事業者ごとに別の仕組みで展開されている。JPQRによって表示方式の統一は進んでいるが,清算や接続を担う中央の共通基盤,いわゆる中央スイッチや清算ハブはまだ一本化されていない。

 そのため国内の利便性は高い一方で,国際連携を前提とした設計には十分に踏み出し切れていない。結果として,海外との接続を進めにくい構造が残り,急ピッチで進むアジアの動きに対して遅れが生じやすい状況にある。

 ここで参考になるのが,韓国の取り組みである。韓国も日本と同じく複数のQR・ウォレット事業者が存在するが,その背後で中央の清算機関が共通ハブとして機能している。

 現在,韓国はこの清算ハブを海外の決済ネットワークと接続し,国際的な共通レールとして活用しようと検討を進めている。これは,国内の事業者同士を一本一本つなぐ必要をなくし,国内の競争環境を維持したまま,背後の清算レイヤーをまとめて国際接続する発想である。国内競争と国際接続を両立できる,現実的な橋渡しモデルと言える。

 ポイントは,各国の制度の違いを表面的な比較に終始することではない。問われているのは,どの国がどの段階まで未来志向の構想を進めているかという点である。

 インドと主要なASEAN加盟国はすでに国内のリアルタイム決済を統合し,国際接続の実装へ踏み出している。現在はさらに,その上位に位置するトークン化や中央銀行デジタル通貨(CBDC)への拡張を視野に入れつつある。

 韓国はその一歩手前で,清算ハブの国際接続による移行を模索している。日本は,依然として国内統合そのものが途中段階にとどまっている。

 こうした流れのなかで,日本が直面している課題は,個別の機能改善ではない。即時送金やQR決済を民間サービスとして扱う段階から脱し,公共インフラとして再定義し直せるかどうかである。国内で統合した基盤を整え,その先に国際接続を組み込む方向へ,設計の考え方を転換できるかが問われている。

 日本が類似した決済システムを持つ韓国との清算ハブの接続を検討していくことは,その転換に向けた重要な第一歩となり得る。そこから得られた運用知見をもとに,国内基盤を統合し,やがてインドやASEAN型の国際接続モデルへ近づく可能性が開かれるだろう。

 日本の課題は,技術力の不足にあるのではない。

 どの方向を向いて設計してきたかという問題である。内向きの改善にとどまるのか,それとも国際接続を前提に金融インフラを再設計するのか。いま,その選択が日本に突きつけられている。

[参考文献]
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article4160.html)

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白井さゆり

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