世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2631
世界経済評論IMPACT No.2631

価値判断の話をしよう

西 孝

(杏林大学総合政策学部 教授)

2022.08.08

 まずは基本的なことのおさらいから始めよう。命題には「・・・である」というタイプと,「・・・であるべき」というタイプがある。前者は「実証的命題」などとも呼ばれるが,そこでは事実判断がその根底にある。それに対して後者は「規範的命題」などと呼ばれ,その根底にあるのは価値判断である。

 実証的命題の最大の特徴は,その命題の正しさを事実に基づいて判定することが(原則として)できるということである。これに対して,規範的命題について同じことを期待することはできない。私が「太陽は西から昇る」と言えば,これは実証的命題である。そして明日の朝になれば,それが間違っていることを,事実に基づいて確証することができる。

 しかし他方で,私が「太陽は西から昇るべきなのだ。私の名前を日没と結びつけるとはけしからん」と言ったとしたらどうだろう? それは価値判断の問題であり,誰もそれに賛成しないとしても,少なくともそれが誤りであることを客観的な方法で確証することはできない。いわば,言った者勝ちである。

 もうおわかりだと思うが,厳密な意味で「科学」と呼ばれるものは,実証的命題にのみ関わる。少なくとも近代以降の科学の発展は,それによってもたらされてきた。逆に命題の客観性を保持するためには,規範的命題は極力排除し,それに関わるべきではない,ということになる。何しろ,いくら議論しても決着がつかないし,そういうときは決まって,権威や力のある人の意見が通ってしまうのだから。

 経済学もまさにその路線に乗ったのだ。そうしてできたのが,有名なライオネル・ロビンズ(1898−1984)による経済学の定義「与えられた目的を達成するための,最も効率的な資源の配分を考察の対象とする」である。つまり,目的それ自体は価値判断なので,経済学はその選択には関わらない。それは政治とかそちらの世界の話である。でも一度,目的が与えられさえすれば,経済学はそれを達成するための最も効率的な手段を提供するであろう,というわけだ。

 さて,ここでクイズである。上述のような経済学の定義の中には,実はしっかりと価値判断が埋め込まれている。それは何だろうか? 答えは「効率的な」という部分である。それは功利主義哲学に基づく,立派な価値判断なのである。通常は,各人の満足(効用)が最も高くなるような資源配分であり,さらに一般的な効用関数のもとでは,より多く(あるいは同じことだが,より安く)消費できる,ということである。

 言うまでもなく,それは誰もが同意する唯一・最優先の価値判断ではない。そしてそれが価値判断である以上,それに対して普遍性・客観性を主張することはできない。したがって,例えば,リカード(1772−1823)が比較優位の原理に基づいて自由貿易を称賛するとき,その根拠は「自由貿易にすれば,同じ労働量で,よりたくさん消費できる」ということに尽きる。そしてそれは,功利主義哲学という立派な価値判断に基づいて主張されているのである。

 それに対して,ある財をより多く消費できることより大事なことがあるんじゃないか? という反論が出てきても,何ら不思議ではない。リスト(1789−1846)は,国民経済が全体として発展することは,ある時点で財の値段が少しばかり安くなることより重要なのだ,といってリカードの理論を批判した。

 ケインズ(1883−1946)もまた,状況に応じて保護貿易を支持した。自由貿易によって一部の産業が衰退し,人々が雇用を奪われる状況に対し,それを避けるために「必要であれば,少しは支払う覚悟がある」と言っている。

 グローバリゼーションがもたらしたさまざまな弊害も,「財の値段が安くなる」という価値判断が,人々が雇用と職能を維持できること,グローバリゼーションの成果を公平に分配すること等々の価値判断よりも優先されていることから生じていると考えられるのである。

 しかもさらに悪いことに,「財の値段が安くなる」は,価値判断であるとは認識されておらず,あたかも科学的,客観的,普遍的な命題であるかのごとく述べられている。まさにロビンズの定義が示しているように,である。こうして,経済学は鵜の真似をする烏となって,溺れているのである。

 値段が安くなることも,人々が雇用・職能を維持できることも,平等な分配を実現することも,途上国がさらに経済発展することも,そして経済成長よりも豊かな精神生活を優先することも,すべて価値判断である。それらはどれも,残念ながら,客観的に,科学的に白黒つけることはできない。できるふりをすることも許されない。じゃあ,どうするかって?

 そう,われわれはもっと価値判断の話をしよう。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2631.html)

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