世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
タイのアヌティン政権の内憂外患:首相の侵入発言謝罪と共同宣言停止への米関与
(元亜細亜大学アジア研究所 特別研究員)
2025.12.01
タイ政府は,カンボジアとの国境紛争交渉に関し,国内向けと国際向けに異なる説明をし,その過程で,2つの大きなトラブルを抱えた。ここでは,これを内憂外患と呼んでおこう。内憂はアヌティン首相の侵入発言とそれへの謝罪であり,外患はトランプが立ち会った共同宣言を停止したことに対するアメリカの関与である。両問題はトレードオフの関係で,タイ政府が完全に解決するのは困難だろう。タイ政府は,両問題の所在をかねて承知しており,2つの異なる説明で乗り切ろうとしたが,結局,うまくいかなかった。
アヌティン首相の国内向け弁明と失策
内憂からみていこう。議論は,10月26日午前,アヌティンが「カンボジア王国首相とタイ王国首相によるマレーシア・クアラルンプールでの会談の成果に関する共同宣言」署名のためにマレーシアに移動する直前に始まる。アヌティンは,共同宣言を国民,特に,ナショナリストに受け入れてもらうために,フェイスブックで次の内容を配信した。
第1に,「本日署名する文書は,法的拘束力を持つ平和協定ではなく,両国が実施すべき指針である」と述べ,「宣言のいずれの条項もタイを不利な立場に置かない」とし,この合意にはカンボジア政府が実施すべき,(1)国境地帯からの重火器の撤去,(2)地雷除去,(3)詐欺犯罪や技術犯罪の抑制に協力すること,(4)問題防止のための重複請求権地域の共同管理の道を模索すること,という4つの主要なポイントが含まれている旨を配信した。確かに,午後に署名された宣言は,国家や政府ではなく,首相間で締結されたもので,法的拘束力はないと思われるが,トランプの立ち会いの下で行われており,強い政治的拘束力がある。その結果,カンボジアだけでなく,タイも,地雷除去や重火器の撤去などを行わなければならず,タイが不利な立場に置かれることもあり得る。
第2に,アヌティンは「20万分の1縮尺の地図を受け入れるという噂は嘘だ」と強調した。しかし,2000年に両国が締結した「陸上国境の測量及び画定に関する覚書(MOU43)」の第1条で「1904年と1907年のフランス・シャム条約に基づく地図に従って,測量及び画定を共同で実施する」と規定しており,今回の宣言もこれに拘束される。タイが希望し,実現したのは宣言に「MOU」という文言を入れないことだけだった。
第3に,アヌティンは,「“国境検問所の開放”,“土地を失う”,“フェンスを建てる”,“20万分の1縮尺の地図を使う”といった領土割譲を示唆する行動をとったりするという表明は一切ない」と述べたが,これでは国境紛争の交渉にならない。
第4に,アヌティンは,「我が国の国歌が述べているように,『タイ人は平和を愛しつつも,戦争からは逃げない』。これは,タイがカンボジアとの関係で問題を抱えて以来,常に遵守してきたことである」と述べ,ナショナリズムを喚起した(注1)。
上述のような内容をフェイスブックで国民に配信したにも関わらず,アヌティンは,クアラルンプールでの第47回ASEAN首脳会議中のメディアインタビューに「カンボジアがタイに侵入している地域がある。そして,タイもカンボジアに侵入している地域があるという事実も受け入れなければならない」と述べた。なお,英語原文で,「侵入した」は“encroach”が使われる。これには「侵略する」という意味もあるが,「(武力で)侵略する」という意味で使用するならば,“invade”が一般的だし,こちらの方がより意味が強い。したがって,アヌティンは「侵略する」ではなく,「侵入する」という意味で発言したと思われる。また,動詞の部分は現在完了形なので,侵入が現在も継続していることを意味している。アヌティンの発言に対しタイ国民,特に,ナショナリストは,国境の膠着状態に対し,タイにカンボジアと同じ責任があると示唆したことを批判した(注2)。
これに対しアヌティンは,10月28日以降繰り返し,「タイもカンボジアに侵入した」と示唆したことを謝罪することになった。その際,アヌティンは,「ワイ」(ひじを軽く身体につけ,顔や胸の前で指先を揃えつつ両手を合わせる)の姿勢をとったので,国民もアヌティンに真摯な謝罪の意図があることを理解しただろう。アヌティンは,言及したのは国境未画定地域に関するもので,協議の結果,我々の土地が彼らの土地に重なっていると判明すれば,我々も下がる。同様に,彼らが我々の土地に重なっていれば,彼らも下がらなければならない,という「両国間の公正な問題解決の必要性を強調するものだった」と述べた。そのうえで,国民とのコミュニケーションの不備を認め,同様の過ちは二度と起こさないと誓った。また,アヌティンは「タイが領土,主権,名誉,尊厳を失う見込みは一切ないと国民の皆様に保証する」と再度述べた。しかし前述のとおり,これではカンボジアとの交渉にならない。アヌティンは,自分がミスをしたばかりに,国際社会と異なる約束を,しかも,領土だけでなく,「主権,名誉,尊厳」を加え国民に対し約束をすることになり,カンボジアに対して,妥協の余地はなくなった(注3)。
共同宣言の履行停止で米国がタイとの関税交渉一時停止
次に,外患である。11月10日,シーサケート県カンタララック郡でタイ軍兵士4人が地雷の爆発で負傷した。同郡はプレアヴィヒア寺院のあるカンボジアのプレアヴィヒア州に隣接しており,カンタラとは断崖という意味である。地雷事故を受け,同日午後,タイ政府は「原因解明まで共同宣言を停止」する旨発表した。しかし,さらに事態は悪化した。タイ外務省によると,12日,カンボジア軍がシーサケート県コークスーン郡ノン・ヤー・ケーオ村で発砲,タイ陸軍がこれに応戦した。これについてタイ外務省は,「タイの主権を守り,かつ,自衛のために行動することを余儀なくされたもので,タイ軍の行動は国際法及び交戦規定に従って実行された」と述べ,タイ側に死傷者は出なかったとした。また,上記2つの出来事は共同宣言を侵害していると非難し,地雷の埋設は対人地雷禁止条約(オタワ条約)の義務違反なので,本年の締約国会議の議長国の日本を通じて,条約事務局に抗議文書を提出済だとした。2025年12月1~5日,第22回締約国会議(ジュネーブ)が開催されるので,タイはここでカンボジアによる条約違反の繰り返しという問題を提起する意向である。さらに,タイ外務省は,上記2か所を視察するためにASEAN監視団(AOT)を招待するととともに,共同宣言署名の証人となったアメリカとマレーシアに本件を説明する公式文書を発出済と発表した(注4)。
一方,10日,カンボジア外務省は,タイ政府が共同宣言を停止したとタイ・メディアが報じた段階で,これに重大な懸念を表明した。また,11日,カンボジア国防省は,タイ兵士が「過去の紛争の残存物である地雷原」をパトロール中に負傷した事故を,タイメディアがタイの指導者や軍高官の発言を引用しつつ,「カンボジアが新たな地雷を埋設した」と報じている。これについてカンボジア政府は断固否定すると発表した。また,同省は,カンボジアがオタワ条約を遵守し,民間人の安全と安心を脅かす新たな地雷の使用,及び,設置はしていないことも再確認した。他方同省は,12日午後3時50分頃,ボンティアイミアンチェイ州プレア・チャン村において,タイ軍による発砲があり,カンボジアの民間人1人が死亡,4人が負傷したと述べ,「これは,カンボジアの主権及び領土保全並びに共同宣言を侵害する非人道的で残忍な行為」とする最も強い言葉でタイを非難した(注5)。
14日,米通商代表部次席は,タイが共同宣言を停止したことを理由として,関税協定交渉の一時停止をタイに通知した。14日,アヌティンはトランプとアンワル・マレーシア首相との各々の電話会談後にフェイスブックに「タイには主権を守り,外国の脅威から国民の生命と財産の安全を確保するために必要なあらゆる措置を講じる権利がある」と投稿,翌15日にはカンボジアが共同宣言違反を認めて謝罪するまで,タイも共同宣言を履行しないと表明した。このようなナショナリスティクなアヌティンの対応にはタイ国内からも批判が強まっている。一方,フン・マナエト・カンボジア首相はフェイスブックへの投稿で,カンボジアは共同宣言の履行を継続すると表明,合意した原則とメカニズムに従って双方が引き続き協力することを期待すると述べた(注6)。
なお,24日,タイ軍は,「AOTタイ」の調査結果を発表し,その中で,10日にタイ兵を負傷させた地雷は新たに設置されたPMN-2対人地雷であることを確認したと述べている。しかし,ASEANは26日の時点で報告書を公開していない。カンボジアは,従来と同様,地雷埋設を否定するとともに,中立的な機関が参加を得た両国による検証を求めている。今回の発表により,両国の関係はより対立的となり,事態の改善は当分見込めそうにない(注7)。
[注]
- (1)Khaosod English, 26 October 2025.
- (2)Bangkok Post, 3 November 2025.
- (3)Ibid.;『THAIIKU』2025年10月29日; https://note.com/takeokmt/n/n49ab4c632749 2025年11月13日最終閲覧。
- (4)Ministry of Foreign Affairs of the Kingdom of Thailand, Cambodia’s repeated violations of the Joint Declaration on the outcomes of the meeting between Thailand and Cambodia; Ministry of Foreign Affairs of the Kingdom of Thailand, Summary of Press Briefing on the latest developments in the Thailand - Cambodia border situation, 13 November 2025.
- (5)Ministry of Foreign Affairs and International Cooperation, Statement of the Ministry of Foreign Affairs and International Cooperation of the Kingdom of Cambodia,10 November 2025; Ministry of Foreign Affairs and International Cooperation, Statement of the Ministry of Foreign Affairs and International Cooperation of the Kingdom of Cambodia Cambodia Strongly Condems Civilian Shooting by the Thai Forces,12 November 2025;Ministry of National Defence, Cambodia Reaffirms Full Compliance with Ottawa convention and Denies Use of New Landmines,11 November 2025;Ministry of National Defence, Cambodia Condems Thailand’s Brutal Attack on Civilians,12 November 2025.
- (6)『Reuters』2025年11月17日。
- (7)The Nation,24 November 2025; Cambodianess, 26 November 2025.
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