世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
政治経済構造により創られたタイの格差問題
(神奈川大学経済学部 教授)
2022.03.28
近々タイにおける格差問題を歴史的規定要因から考察した共同編著を上梓する予定である。その内容をまとめた。
1960年代初めまで,国民の多くが農業に従事している農業国であった。1960年の一次産業の従事者(そのほとんどは農業)の割合は82%であった。20世紀は工業の世紀で,農業で豊かさを実現できる世紀ではなかった。タイの一人当たりの所得も低いまま停滞していた。
農業国タイの本格的工業化はサリット政権から始まったが,繊維産業などを除き,国内市場に向けた輸入代替工業化に長くとどまっていた。しかし,プラザ合意による円高,アジアNIESに対するアメリカ特恵関税の廃止という国際環境の変容を受け,日本を中心とする海外からの直接投資が大きく伸長した。その結果,タイ経済は1980年代末から高度経済成長に突入し,NIESに続く「5番目の虎」などと呼ばれ注目を集めた。1990年代以降のタイ経済の発展は,輸出を目的とする工業化であり,世界経済にリンクした国際分業の一翼を担った発展が始まった。工業に従事する人々の割合が高まり,タイにおける一人当たりのGDPも増加し始めた。
1980年代末からの経済成長はタイ社会に様々な変化を引き起こした。一次産業従事者の比率はすでに述べた1960年の82%から,1980年に72%,2000年には48%となり過半数を割り,2020年には35%へ低下した。国民の大多数である貧しい人々の子弟も高等教育へアクセスが可能になった。教育は政治意識の覚醒をもたらし,議会制民主主義の意義を理解し,自らの正統な権利を主張し始めた。従来タイにおける王族に代表される上層や都市の中間層による政治の独占構造に異議を唱え始めている。既得権益層が自らの権益を守るため議会制民主主義をクーデターで潰しているのが現在のタイの政治経済情勢である。
タイの経済発展により貧困問題はどうなったのだろうか。トリクルダウンが一定程度見られたことは,貧困者数の減少や一人当たりのGDP上昇から確認できる。タイのおける貧困や格差の各種指標は国家経済社会開発庁(NESDB=National Economic and Social Development Board)が世銀の支援を受けて作成している。NESDBが定める貧困ライン以下の割合は,高度経済成長が始まった1988年には65%と国民の過半数を占めていた。2019年には6%にまで低下し,中進国化で最底辺の人々も恩恵を受けたことがわかる。一方タイは,いまだに富裕層への富の集中は世界で最も大きな国の一つである。クレディスイスが発表している2019年の富裕者上位1%がそれぞれの国の富に占める割合の国際比較では,タイは1位のロシアの58.2%に続き,50.4%で2位である。ちなみに先進国で富の集中が激しいと批判される合衆国ですら35.4%であり,タイやロシアの富裕層の富の独占がいかに理不尽で危険なレベルであるかがわかる。これらの格差は歴史的な権力構造が創り出したものであった。特に問題なのは所得再分配機能を持たない税制である。株式の譲渡益は今でも課税対象ではない。タイでは相続税や固定資産税も長らく存在しなかった。プラユット,クーデター軍事政権で唯一の「仁政」はこれらの税を導入したことであった。しかし相続税の資産把握からゴールドを排除し,課税控除が1億バーツ(3.5億円)でその控除額を超えた資産への課税は直系親族では5%,それ以外では10%と,極めて軽い税負担である。また固定資産税は5000万バーツ(1億7500万円)までは無税とされた。税率は自宅であれば上限が0.3%で,その上限の範囲で地方自治体が課税率を毎年決定するというものである。先進国と比べても税負担は極めて軽い固定資産税となっている。富裕層を優遇するタイのような政府では所得再分配政策が機能せず,政治的に格差是正が放置され,格差問題の悪化を止めることができない。タイにおける格差解消には民意を反映した政府の実現が望まれるが,現時点では明るい展望は望めない。
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