世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
新しい資本主義における政策課題
(北星学園大学 名誉教授)
2021.11.29
猛進を続けた市場資本主義が近年急速に遅滞しはじめ,その結果グローバリゼーションの進行に対しても世界の懸念が広がり始めたことは注視すべきであろう。勿論,日本のように長年継続した経済的停滞という異常に対し,どのように対応するかは今最も現実的な経済政策の有り様を巡る問題だ。岸田新政権の「新しい資本主義」が,どのような形で対処してゆくかは重大課題である。本稿では,経済停滞と経済格差に関するマクロ経済データから得られる政策課題について取り上げる。
前稿(No.2347)において,筆者はGDP基軸の経済成長に関して,それと連動する分配政策,特に賃金停滞論について述べた。新しい日本の経済で賃金を中心とした分配論では十分留意すべきであることを強調したい。では,現代日本の資本主義が,労働分配率の低位水準の継続によって,国民が貧困化し,又所得の格差や労資の経済格差も存在しなくなってきているのかといえばそれは全く違う。これは実はトマ・ピケティが発表した「21世紀の資本」で初めて明確に指摘された経済理論で説明できる。トマ・ピケティは同書の中で「21世紀の資本」論の基本的骨組みは,
- ①資本主義の第一法則 α=γ×β
- ②資本主義の第二法則 β=s/g
- ③21世紀の資本主義の結論 γ>g
の三点で成り立っていると説明する。
ここでの記号はα=資本分配率, γ=資本収益率, β=資本/所得比率, s=貯蓄率,g=経済成長率である(以上の用語は邦訳のまま)。
そこでこれらの指標を,標準的なSNA(System of National Account)方式にもとづいてそれぞれを書き表すと
- ①資本分配率=資本収益率×資本/所得比率だから次のように分解できる。資本所得/国民所得=(資本所得/国民資産)×(国民資産/国民所得)
- ②国民資産/国民所得=貯蓄率/経済成長率
- ③資本収益率>経済成長率で,これがピケティの「21積資本」の結論である。
このような極当たり前に見える諸指標の分解式は,日本語の翻訳では詳細説明がないのでピケティ理論の理解のため筆者が書き表してきたものだが,このエッセイ執筆の機会を得て幸いにも重要な経済分析上の発見があった。重要な発見とは何か。それはマクロ経済を資本(Capital Income)と資産(Wealth)とは異なっており,それを分離して説明したことである。このピケティの資本論を経済分析の基本としてきた新古典派の総帥アローは「ピケティは正しい」と激賞した。そしてノーベル賞経済学者スティグリッツはフロー経済の典型的指標であるGDPからは,国民経済の実態,特にアメリカのような経済大国といわれながら貧困層の圧倒的に多い国の経済は,分析できないと長く主張してきたが,このピケティ論によってようやくそれが明らかに示されたと高く評価した。そして1%の国民が99%の富を保有し,99%の国民が1%の富しか保有していない世界の経済的格差最大国の姿が明確に示され,アメリカの経済格差闘争に重大な影響を与えた。ピケティは,この「富」は一般国民のフローのひとつである給与などではなく,少数の富豪層の資産(金融のみならず住宅,絵画,土地など保有するあらゆる種類の資産)の富と一般市民の所有するわずかな富の格差こそ21世紀世界経済の行く末だと警鐘を鳴らしたのである。これはまさにアダム・スミスの「諸国民の富」が経済学のスタートであったことに類似しているかもしれない。
先にも述べたように日本は経済成長率が長く低迷し,多くの国民が長年苦悶してきたように見える。しかし,その中で日本人は中流,平等社会に近い状態で暮らしてきたとの説明もしばしばある。確かに平均では世界の中の貧困国ではないといえるかもしれない。しかし,それは間違った判断の上で理解しているのかもしれない。最も重要なのは,我々専門家を含めて日本のストックデータを見落としていたのではないかという点だ。ではストックデータではどのようなことが解るのか。先のフローデータとほぼ同じ期間で比較してみよう(ストックデータは前年を示すのでフローが対象とする年度の1年前の数値)。ストック全体は負債を差し引くと正味資産(国富)が1994年末3,672.0兆円,2019年末3,689.7兆円であるが,GDP成長率と同様ゼロ成長で代わり映えはしない。しかし正味資産の構成をみると,最大を占める家計は1994年~2019年で構成比66.3%から77.0%へと最大の成長を遂げた。民間企業の増加率は16.4%であるが,長期ではほぼゼロ成長に近い。他方「一般政府」は,488.3兆円(13.3%)から98.7兆円(2.7%)へと390兆円と最大の激減となっている。ストック表の別枠で土地と株式が示されているが下落しており,この期間には土地,株などのバブルは発生しなかった。以上を総合すると,最大資産を保有する家計は現・預金などの流動資産は,1994年末1234.5兆円から2019年末1883.6兆円の1.53倍,非生産資産である住宅は1994年末328.7兆円から2019年末1993.9兆円の6.07倍と大きく増加した。最も激減したのが一般政府であることは先に述べた。ここでようやくストックデータから長期の日本経済の動向をフローデータとは全く違った形で補足し,理解することが出来る。基本は需要不足でゼロ金利などの低利子で供給されている資本が,宙を舞うことなく家計を主力とした需要超過の資産に大量に流出しているということである。特に家計は預貯金や住宅などの個人資産を大幅に増加させているのである。
しかしこのような貨幣ストックの増大が国民の間で貧富の差を拡大させているのではないかという問題がある。ここで考慮しなければならないのは,家計対象が普通のサラリーマンと違って経営幹部となっているのに資本の層にはならない人々(スーパー経営者など)や高齢退職者の資産運用(孫への遺産など),共働き層の超高額住宅所有,税金逃れのための海外への資金流出など,フォーブスにのるような大富裕家ではないが,富豪層に成り上がった人々が日本でも形成されてきているのではないかということである。こうした資産格差は今の日本では極めて不明確である。何故なら市民の資産を資産内容や資産別規模別に調査し,分析したものは少なくとも政府レベルでは皆無である。例えば厚生労働省の所得実情調査は年々仔細になり,中位所得層の変動なども指摘するようになり,例えば世界水準からはるかに低い一人親の貧困問題などが議論され始めたが,ストックである資産についての情報は全く言ってよいほどない。ピケティは膨大な数値な研究を世界の銀行や政府の協力によってこの問題の解明にたどり着いたと言っている。国民のこうした細部のデータを殆ど持っていない日本では,先ずこのような基本的な作業によって国民生活の実態を把握する具体的な作業が必要である。いずれにせよ大多数を占める一般市民がどのように動いているかを正確に把握できない限り,新しい資本主義をめざす日本経済の再生論や分配論が,空念仏に帰するのではないかと危惧する。
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