世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
人財活用戦略のための自由主義
(エコノミスト )
2021.07.05
実際の経済政策はその時の社会状況を反映し,あるいは大勢の利害関係者の綱引きの中で決定される。そこにはイデオロギーや理論的考察も影響するが,むしろ試行錯誤の中で形成されている。最も明快な事例は,現在進行中のコロナ・ショックである。そして,ここでは大規模な財政出動が展開されており,新自由主義的主張は鳴りを潜め,ひたすらケインズ主義的様相を帯びるようになってきている。
若干時間を戻して自由主義思想を振り返ると,新自由主義政策への風当たりはグローバル化の進展とともに,特に米ソ冷戦体制の崩壊以降強まっていた。マルクス主義体制批判が社会的倫理観を弱める役割も果たしたが,肝心の社会主義的思想家は有効な理論的反撃を展開できなかった。スターリン主義への苦い経験が重くのしかかり,その重圧から解放されることはなかった。プロレタリア独裁や共産党一党支配の容認よりも,人々は個人の選択や自由の謳歌を選好するため,当然といえば当然である。しかし,野放図な自由主義や行き過ぎた個人志向も決して称賛されるイデオロギーとはいえない。
世界人口増と国際開発が加速化する国際社会において,グローバル化そのものを避けることは出来ないが,格差是正のためにできることは,経済システムそのものの内的形態に変更を求めることである。ごく最近「各国のマクロ経済的格差が拡大しても,国内で調整すればそれなりに緩和できるのではないか?」との説もアイデア段階で浮上している。考えられる政策やミクロ施策は「企業や職場での所得階層を平準化する」試みである。ポスト(職位・職階)が高ければそれなりに責任が重くなるのも事実であるが,同時に「やりがい」も高まる。従って,「仕事そのものの満足・充実度が高まれば,必ずしも給料が高くなくても,職務に邁進するのではないか」ということである。この方法に則れば「①ポストと所得の非相関(逆相関も含めて),②相関を緩やかにする,③所得を均分にする」の3つのモデル化が可能になる。
もちろんこの理論化には相当の抵抗が生じるだろう。こうした試みに対する批判として,これまで必ずといって良い程「能力のある人は海外に逃避してしまう」という批判がなされてきた。それ故,現実的可能性の高い施策として,「高い給与層や年金取得者はそのままにして,下位層の底上げを行えば格差は是正する」というモデルが提起される。『骨太の方針』でも最低賃金率を全国平均で1,000円にする案が盛り込まれた。しかし,これでは社会総体の賃金コストが上昇し,回り回って結局は物価上昇圧力が強まる。また,企業は雇用数を削減し失業率の上昇を招いてしまう可能性も高い。やはり貰い過ぎの傾向を削減するのが妥当ではないかと思われる。
さらに成長主義,新産業創出による格差是正論は,産業内・産業間労働移動(ジョブ・トレーニング)を伴う議論である。これがスムーズに進めば理論上は格差軽減策に貢献する。しかし,大分崩れてきたとはいえ固定的な雇用制度が長く続いてきた我が国では,経済理論で想定するほど容易ではない。管理職層の意識がまだまだ,追いついていない。その結果が非正規労働の増加となっているのである。従って,こうした施策を強力に推進したいのであれば,益々,上記の「ポストと所得の分離」方式を,リーダー自らが率先してチャレンジして欲しいものである。
かつて人類は奴隷がいなければ維持存続出来ない社会を創ってきた。同様に,大幅な格差がなければ満足できない人間も存在している。しかしあまり健全とはいえない社会心理学を,時に自省しても良いのかも知れない。アダム・スミスは『道徳感情論』(1759年)で分かち合いによる適合性を論じている。そして,ダーウィンはスミス的哲学を進化論の中で再解釈し,『人類の起源』(1871年)で社会的資質を論じている。さらに,フロイトは『精神分析』(1917年)の章立てで感情移転論を展開している。巨匠は2世紀を超えて,社会的共有の重要性を人類存在の本性に関わるものとして継承している。次世代の資本主義は強欲の資本主義である必要はない。資本主義のバイタリティーは多様性とより高いステージのシステムを創り出せる点にある。「資本の増殖」が直ちに単体膨張を引き出し,地球環境を破壊してしまうという単純構造とは異なる。
シュンペーター的創造的破壊のプロセスは旧来型高エネルギー社会からの脱却を導き出すものであり,古い産業・労働形態の廃棄である。つまり新システムとの交替であり,一種のカネ亡者が暗躍する社会ではない。徳の高いリーダーの下で年功や職位・職階に関係なく,業績や実績が評価される企業組織運営を期待したいものである。せめて,代議士・議会人やCEOレベルの人はリカレントによる学位取得者が相応しいのではないだろうか。「知略,知に溺れる」ということもあり,学のある人のみが立派であるともいえないが,十分条件ではないが必要条件位にはすべきと考えられる。社会の要所々々にこうした人々が配置されていれば,何でもお上頼みの社会から脱却もできる。好況時の収益は全て自ら取得し,逆に不況に喘ぐ事態になれば政府に全面的に依存するというシステムもあるが,民間(各業界全体で調整)が可能な範囲で自助努力するシステムも当然必要なのではないか。これが自由主義の神髄でもあろう。総体としての社会システムは「経済的インセンティヴ」を基盤としつつも「精神的インセンティヴ」が大きく左右するのは議論を待たない。経済外的動機も重要であり,市場メカニズムの台座としての社会的法体系をどのように措定するのか。多様な市場経済システムの在り方を論ずべきである。
研究者の評価は時代動向を深く読み込むことが使命であるが,その際の論理的基準が重要である。最近,中堅どころの研究者が「雁行形態論」を「がんぎょうけいたいろん」と読んでいる場面に遭遇したが,時代とともに言語は変遷するのであろうか。また,経済学への数理モデルの無批判的導入も時として見られるが,社会科学分野への安易(形式主義的)な導入を懸念する数理統計学者の箴言がある。さらに,この間の大学入試改革についての日本経済新聞社主催シンポジウムで,「大学は就職予備校ではない」との浜田純一前東大総長の発言もある。すぐに成果を出すことだけが求められる社会だから,様々な「改革」が朝令暮改になるのではないだろうか。
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末永 茂
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