世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
通貨の競争?
(関西大学商学部 教授)
2021.03.15
近年,貨幣論に関する書籍が注目を浴びてきた。これには,貨幣への関心の高まりには二つの背景があるのではないか。通貨のDX,すなわちディエム(旧リブラ)などの暗号通貨と中央銀行デジタル通貨への関心の高まりと,一方で通貨そのものへの疑念の高まりである。ここでは後者に関して少し考えてみたい。
(紙幣であっても硬貨であっても)通貨1単位が象徴的に表すのは,それを使うことができるという通貨決済のネットワークである。そのネットワークを利用する利用者は,通貨の価値そのものへの信認と,ネットワークの利便性によって,その通貨を利用する。利便性だけを追求すれば通貨を無尽蔵に発行して多くの人に行き渡るようにすれば,その利活用は高まるだろう。しかし,その無尽蔵の発行を知った人々は,その希少性が薄いことを知り,その通貨の価値はいずれ下がってしまうと予想し,資産として保有することを避けるだろう。そのため,通貨の発行は利便性と(将来の)信認とのバランスを考えて,行われる必要がある。中央銀行制度ができてからは,中央銀行が通貨供給を独占してきた。そこには中央銀行に独占させることで,国民が信認を寄せやすい点とともに税の徴収のために政府はコントロールしやすいということもあった。そのため中央銀行の独立性という議論が80年代におき,実際に独立性を高める動きがでた。
デフレのもとでは,通貨への信認を喪失させることでインフレを高めるという議論がある。たとえば中央銀行の財務を悪化させるように,様々な「もの」を買い続けることであろう。それにより,たしかに少し時間がたてばモノの価格が上がることを予期すれば,欲しいモノを価格が上がらない今のうちに買おうとするのは人の知恵であろう。ただ,欲しいモノ,すなわち商品がなければ,金融資産や不動産を購入するのも自然である。
一方,通貨への信認がある中で,危機が起きたり,資産への魅力が乏しくなれば通貨を貯め込む。筆者のユーロ圏の推計でもマイナス金利が導入されてから現金需要が高まっている。しかし,経済危機が続き,危機に対応できない政府・中央銀行への信認とそれまで蓄積された通貨量をかえりみて通貨ネットワークの信認も低下し,いっせいに保蔵している通貨を手放すのかもしれない。
その手放す方法がこれからの通貨のDXによって多様になるであろう。今でも自国の通貨への信認を寄せることができなければ,海外に預金や金融資産を移すであろう。通貨の信認の劣化は,自国だけでなく海外モノや資産にも拡大してゆくのは自然である。どの通貨が選ばれるのか,利用できる通貨のメニューがこれから増えていく中で競争が始まるだろう。ただ,この通貨競争が望ましいとはいえない。ハイエクは通貨間の信認競争が行われ,通貨発行の節度が維持される世界を描いたが,通貨の信認を喪失した経済では資産価格の暴落や輸入価格の急上昇によるインフレの高進といったことが挙げられよう。
通貨の競争を穏やかにしたり回避したりするには,二つの方法がある。一つ目は,そもそも競争相手となる通貨の発行を認めなかったり,海外に自国の居住者が資金を自由に送金させない規制という方法はある。しかし,これは自国の通貨管理ができなかったことを内外に表明するようなものであり,当局は施行したくないだろう。では,もう一つの方法は競争に打ち勝つだけの信頼を保つ通貨発行とすることである。通貨の決済ネットワークを価値や利便さに不安にならず安心して,人々に提供できるようにすること,その当たり前のサービスを維持することである。
これら二つのどちらの選択をするのか,現時点では二つ目が当然のことと思われる。しかし,それが当たり前でないような事態も,考えてみる必要があるのではないだろうか。
今年に入って小説家の相場英雄氏による『EXIT』が話題になっている。ネタバレにもなるので,内容について触れるわけではないのだが,その小説の扉を開くと,最初に前日銀総裁の白川方明氏が著した著書からの引用がある。「信認は空気のような存在で平時は誰もその存在を疑いませんが,信認を守る努力を払わなければ,非連続的に変化し得るものです。……」
通貨への信頼がいったん崩れることでその背後にあるネットワークそのものも崩壊する,そのような事態を想像するのは今の日本では難しい。しかし,通貨の国際的な競争が身近に始まるとすれば,より信頼の高い決済ネットワークを求める人々が円を手放すといったことは,絵空事として片付けていいものであろうか。
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