世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
香港国安法が示す「一国二制度」の行方
(亜細亜大学アジア研究所 教授)
2020.08.24
香港国家安全維持法(国安法)の施行から1カ月半。「一国二制度」への国際社会の信認は低下し,香港が長年担ってきたビジネスセンター機能に対する不安も増している。香港で起きていることをどう考えるべきか,歴史的な経緯から明らかにしたい。
香港は大英帝国が発動したアヘン戦争によって,植民地として発展した。植民地と言っても広大な土地や資源,労働力があったわけではない。目的はその後背地である中国の窓口として拠点を確保することである。関税のない自由港として,右のものを左に持っていくことで付加価値を最大化するDNAが祖業の「貿易センター」である。体制が異なり閉ざされた中国との交易には大きな魅力があった。
次に,香港を語るときによく使われたのが「自由放任」「積極的不介入」である。経済活動に政府は関与しない(稼げる場を提供する),経済主体は稼ぐこと(利益の最大化)だけを考えればよい。規制は最小限でお行儀のよさも求められない。これが香港の自由と活力,ダイナミズムの源泉である。タックスヘイブン(低税率)で資金の出入りも制約なし,いかに魅力的な「儲け話」を創出するか,これが「金融センター」の正体である。
もう一つ,かつては「香港情報」というジャンルがあった。香港を舞台にした真偽不明の情報(特に閉ざされた中国に関する情報)である。各陣営の情報戦が繰り広げられ,今でいうフェイクニュースもまたニュースのうちである。偽情報もそれが流れる背景を考えるならば重要な情報となる。情報の真贋を確かめる能力がリスクを回避し莫大な富を生む。そうすると有象無象の情報が集まり目利きが重宝されるようになる。「情報センター」である。
しかしながら,こうしたあけすけな欲望の社会は植民地だからできることであり,植民地香港の繁栄は宗主国の絶妙な手綱さばきと現地の旺盛な活力,そして20世紀という時代が築いた芸術品である。国際社会は香港を「国際公共財」だとして,植民地の歴史が終わってもその機能継続を強く望み,中国の「一国二制度」という未知の提案を英国は受け入れた。
改革開放に転じたばかりの中国は自分でこのような香港をハンドリングすることは無理だとわかっているので,信頼できる代理人(中国の言う愛国者)に統治を委託した。これが「港人治港」「高度な自治」である。しかし,その代理人がだんだんと劣化し,代理人の体をなさなくなってしまった。中央の助けがなければ自分では何もできなくなり,それが頭越しの国安法制定につながった。
経済だけならオフショアとしての利用価値は大きいが,隣接する地で本国とは異なる開放的な体制が存在することは危険極まりない。体制転覆の基地となってしまうことを中央は危惧した。「金の卵を産む鶏」という比喩は,中国が外貨獲得・外資導入に没頭していた過去のもので,現在の「鶏」はしいて言えばアリババや騰訊といったイノベーション企業に変わっている。香港のために体制維持を犠牲にする選択肢は中央にはない。
長年築き上げた信頼が国安法で揺らいだことは残念だが,返還後じわじわと衰えが進行していたのも事実である。中国と一線を画すことが香港の最大の強みだったが,返還後は安易な一体化を進め,中央と適切な距離を保てなくなった。植民地時代末期に一人当たりGDPは英国を超え,社会は成熟化,階層移動も起きにくい。一獲千金,裸一貫からの「香港ドリーム」は遠い過去のものとなった。低税率も異常な不動産価格で相殺される。住民の福祉などは最低限でよかった植民地時代とは異なり,民生の要求水準も高くなる。20世紀型の経済構造をひきずったままの香港は,「アジアのシリコンバレー」と称される隣の深圳にも後れを取った。
それでは,中国は香港をどうしようとしているのか。それが香港,マカオ,深圳など広東省珠江デルタ9市から成る「粤港澳大湾区(グレーターベイエリア)」である。人口約7000万人,面積約5万6000㎢,経済規模1兆6000億ドル(一人当たりGDP2.2万ドル),米国ニューヨーク都市圏,米国ロサンゼルス広域都市圏,日本の首都圏に次ぐ世界4位のベイエリアという触れ込みだ。来年から始まる五カ年計画の目玉の一つである。
これが香港に与えられた「一国二制度」の新たな運命であり,中国が描くソフトランディングシナリオである。国際社会が抱く香港の魅力や期待との落差を痛感せざるをえないが,こうした現実から逃げられないことを国安法の施行が明確に示している。
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