世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1815
世界経済評論IMPACT No.1815

ハミルトン・モーメント:独仏合意のコロナ基金

瀬藤澄彦

(帝京大学 元教授)

2020.07.20

コロナ共同債

 物事にはこの時というタイミングがある。経済学の理論でもバブルが崩壊に転じる瞬間のことを「ミンスキー・モーメント」として知られている。1790年は米国の初代財務長官アレキサンダー・ハミルトンが,連邦政府の全州債務引受け構想を実現すべく大統領ワシントンや国務長官ジェファーソンの反対も押し切るために,合衆国の首都をニューヨークにする案を断念し,疫病が襲った南のフィラデルフィアを避けもっと南のポトマック河畔のワシントンにするという妥協と譲歩によって,全国13州の共同債券発行と統一された米国合衆国銀行の設立された年である。これが今日のドル誕生のきっかけである。ハミルトンは財務官に過ぎなかったが,今日の米国の連邦準備銀行の基を築いた。今の欧州には彼のような慧眼のあるリーダーシップを発揮できる人物の登場が強く望まれる。メルケルとマクロン合意によって提案された欧州連合加盟国の共同債券「コロナ・ボンド」発行やEU予算の大幅な増額を画に描いた餅にさせてはいけないという緊急性はこれまでに高まっている。

 機は熟しているのか。今の機能主義的な連邦主義,つまり自由貿易,関税同盟,単一通貨,などの政策という機能的収斂を段階的に止揚していけば,政治的な連邦欧州合衆国が形成されるという考え方は実は間違っていたのではないかと反芻し,一歩引いて考えることも必要ではないのか。「ハミルトン・モーメント」論はそう語っているように見える。少なくとも米国の歴史では政治の統合がまずあって次に1790年代に財政同盟が誕生し,金融政策に関する統一は19世紀末まで待たねばならなかった。もともと80年代に単一市場を主導した元EU委員長ドロールが「連帯欠如で瀕死の時に強い政治リーダーシップ」を発揮できる指導者がいないと嘆いているのは印象的である。この点で気になるのはフィナンシャル・タイムスの論説記者ウォルガング・ムンヒョウ(Munchau)の言葉である。少し長いが引用する。「権力に対して真実を語れない……。ユーロ危機の最中に内輪でEUの政策を批判しながら,公の場では決して批判を口にできない欧州統合派の経済学者やその他の学者に何度出会ったことか。彼らは政策立案に携わる有力者のサークルと助成金へのアクセスを重視していた」(日経FT2020/5/22)。コロナ危機は20世紀から21世紀までのすべての経済危機を上回る先例のない深刻なものである。その証拠にドイツではフィッシャー元外相,哲学者ハーバマス,欧州議会員コーンバンディら12人のそうそうたる有力知識人がコロナ共同債に早く踏み切るように緊急声明を出していることからも窺える。これまで寡黙であったドイツから財政支出のアピールを出すことは極めて異例である。

長期予算MFFとの整合性

 報道された数字だけを見ていると7500億ユーロという数字が「例外的に巨大な救済額」の印象を与えているが,まず相対化されるべきである。EUの年間GDPは約15兆ユーロで提案の基金は年間ベースでもたったその3%に過ぎない。しかもその多くはいわゆる真水の財政支出ではない。ドイツでは破産寸前のルフトハンザ航空,VWボディ製造カルマンの破産,TUI観光への巨額救済融資,ドイツ銀行の経営危機,フィンテック企業ワイヤーカードの不正経理,フランスではエール・フランス航空,エアバス,ルノー,高級食品フォッション破綻,アパレル業界ナフナフや靴最大手アンドレ,マルヌ・ラバレにあるディズニーランドなど大手企業の苦境や半数以上倒産の危機にある中小企業に対する救済,などに数年をかけて充てられる予定である。それも返済義務のない5000億ユーロの補助金部分からの助成である。「空虚なスタンドプレー」(FT紙ムンヒョウ記者)とするきついコメントさえある。従ってこのコロナ基金の財政支出の乗数効果も非常に低いものにしかならないであろう。このコロナ共同債基金案はEU長期予算2021~27年の7年間の言わば補正予算である。本当はこの向こう7年間のEU全体のGDPに比較するとたったの0.5%前後の規模に過ぎないのである。EU予算自体の規模が極めて小さいことは,従来から加盟27カ国の予算合計の約50分の1,EU長期予算7年間GDP(105兆ユーロ)の約100分の1以下,さらにEU市民一人当たり換算で年間300ユーロ弱となるが,これは一人一日当たりのコーヒー1杯分にしか過ぎないこととよく比較される。田中素香教授が当インパクトサイトで指摘する通り(20年6月1日付1769号,同6月22日付1787号“ドイツ憲法裁判所のQE違憲判決”),比例性の原則に照らせば未曽有のコロナ危機救済という世紀の目的とコーヒー一杯に過ぎない「大砲」という手段との乖離が余りにもあからさまである。

 2018年秋より2021~27年予算についての協議が始まっていた。2019年12月始動のフォンデアライエン率いる欧州委員会の新体制では,①気候変動対策のための「欧州グリーンディール」,②格差対策のための「人々のためになる経済」,③「デジタル時代に適した欧州」を優先課題としたが,その長期予算(Multiannual Financial Framework=MFF)とこれに続く追加措置が分からないという状況のなかでは,この基金合意だけでは緊急を要する迅速なコロナ対策としての効果は期待できないということである。この支援基金の出どころはどこになるのか。委員会からは財源案としてデジタル税,CO2排出権収入,プラスティック課税,炭素税,大企業課税などの構想が示されている。2月末のEU予算案審議で難航し合意できなかっただけに疑念を起こす。多くの加盟国は英国離脱による対EU上納金(750億ユーロ)がゼロになるなか,今後のEU予算の減額を要望した位だった。緊縮派国のリーダーになったオランダのリュッテ首相詣が続くなか,EUの意思決定を遅延させる要因は,共同決定手続きや特定多数決方式が用いられる場合を除くとほとんどの案件で全会一致採択にしてしまったことである。これは事実上,拒否権をすべての加盟国に与えていることを意味する。7月17〜18日に予定されている欧州連合首脳会議で合意が成立する可能性は限りなく低く,越年の可能性が取沙汰されている。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1815.html)

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