世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
パリ首都圏 富裕化の都心部と中間階層の郊外排除:市街地の住宅政策と産業構造の変化
(パリクラブ日仏経済フォーラム 議長)
2019.03.18
パリ市内富裕化の影響 周辺中小都市へ
ロンドンやニューヨークなどと比較するとパリのジェントリフィケーション(genrification),いわゆる富裕化現象は遅れて現れてきた。それはなぜであろうか。19世紀の後半にはナポレオン3世の指示によりセーヌ県知事のウジェーヌ・オスマン伯爵知事のパリ市街改造計画が劣悪だったパリ市街の生活環境や都市衛生を改善するために実行に移された。しかし実際に右岸の庶民的な界隈に富裕化が始まり,パリの街が本格的に変貌していくようになったのは1980〜90年代になってからである。その富裕化のプロセスはロンドンに比べると遅かったのであるが,パリの富裕化の特徴はパリ市全体に一部の区域を除いて一般化して進行し,パリ市20区の界隈すべてにその影響が及んだことである。
さらにその後,パリ市を取り囲む準パリ市ともいうべき3つの県,にも波及するようになったのである。このパリを取り囲む3つの県のことを「小さな環」(プティット・クローヌ),さらにそのすぐ外側の4つの県のことを「大きな環」(グラン・クローヌ)とそれぞれ俗称で言うが,これが実質的なパリ首都圏である。今やこのパリ都市圏はメトロポール拠点大都市としてニューヨーク,ロンドン,東京に次いでグローバル世界都市と言われるようになった。富裕化の現象はパリ首都圏をさらに郊外にまで拡大したイル・ド・フランス州(注1)や,さらにそれを越えた隣接する州の都市圏,ツール,リール,ランスなどTGV新幹線の停車駅となった周辺の中都市をも巻き込む形で進んでいる。シャピュイ教授はこのようにあたかも海に浮かぶように散在する島々のような都市の地理的な条件をいわば「群島都市」(ville archipel)であると形容した。
伝統的街並み重視で再開発遅れる
ロンドンに比べて富裕化現象の時間的な遅れは,パリの市内こそが歴史的にブルジョワジー資産家の生活の舞台となっていたため,ロンドンの有産階級のように田園都市構想などの考えに魅せられて郊外にまで進出していくということがなかったことの影響は大きかった。私たちが19世紀のロマン派のフランスの有名な作家,例えばプルーストやバルザックのように小説の舞台の多くがパリ市内に限られたパリ都心部の空間にはそれ以上に投資する不動産も少なかったためである(注2)。そのうえでパリの街は第2次大戦でロンドンやベルリンなどのように破壊されることもほとんどなく,伝統的な街並みがそのまま維持されたことも大きい。ロンドン市内東部のドックヤード地区のような大規模な産業跡地もなかったパリは都市部の再開発という方向にはなかなか進まなかった。さらに,当時,パリ市内の住宅は一般的に狭くて快適さという点では見劣りしていた。中間階層以上の資産家でもそこを再改築するには開発コストが高すぎて投資には適していなかったのである。そしてパリの賃貸住宅の家賃は1948年以来,あるいは低廉家賃住宅(HLM)法のできた1949年から厳しく統制されていた。
住宅政策の転換
このような状況に大きな転換点となったのは1986年に成立したメエヌリ法(Méhaignerie)による家賃統制の自由化である。1997年末まで施行されたこのジャック・シラク内閣制定の法律は,その後の内閣で住宅担当大臣となったペリッソル,ベッソン,ロビアン,ボルロー,セリエ,デュフロらに受け継がれ,保守革新の与野党問わず国の住宅政策の基本方針となった。直近のデュフロ法でも住宅需要が過熱している地域における住宅需給を緩和するために最低9年間市場平均家賃より2割安く賃貸に回す新築住宅の購入価格について上限30万ユーロの18%ほど減税するという内容である。これらの住宅政策の方向転換によって不動産が投資の対象とされるようになり投機が始まり,さらに住宅の賃借人になるよりも所有者になることの方が遥かに有利になることが徐々に明らかになるにつれて中古不動産物件をそのために新築に改装することが大きな関心事となっていった。これらの事情がパリ都心部の富裕化の重要な契機となっていったのである。この時期における住宅の再開発は劣悪な古い住宅を解体し,新築の住宅建設として社会住宅用にすることを奨励するものであった。フランスの都市部では2020年までに全住宅戸数の20%を社会住宅(注3),すなわち低所得者向けの公共住宅にすることが義務付けられている。貧困層をスラムやゲットーに隔離するのではなく都市の住民と共存融合させていこうというSRU法(loi relative a la solidarite et au renouvellement)が2000年の左翼連合政権のときに成立した。パリ首都圏では社会住宅比率は15%を超える自治体も増えているが,高所得世帯層の根強い反対もあり社会住宅の建設は予定通り進んでいない。ジャン・ティベリが市長の時,1995年になって初めてパリ市はこの住宅の改装優遇による社会住宅政策を止めて,パリ東部における富裕化につながるプロジェクトにも直接助成することによって民間ベースの都心部再活性化政策に転換したのである。
都心部再開発ブームが富裕化を加速
このようなパリ市内の民間主導による都心部再開発路線によって,1970〜80年代を通じて富裕化の現象は一般住宅にとどまらず都心部の大開発としてますます強まっていった。1970年代にパリ1区における旧中央市場を一大複合流通商業拠点としてフォーラム・デ・アル,パリ都心部の中央駅で南北郊外にもつながる一大ターミナル駅シャトレー・レ・アル(RER Chatelet-les-Halles),あるいは現代芸術センターの中心地としてのポンピドー・センター,などの整備と開発は,中間階層以上の富裕階層による右岸の都心中央部を大規模に再投資することを中央政府も積極的に推進役に回ったことを示すものであった。パリ市内右岸における由緒ある伝統的な館や家屋の多い4区のマレー地区に始まった再開発ブームは,当時,街の中心部から少し離れていた界隈のバスティーユ広場周辺の11区や12区,さらには北部,東部の区域にも広がっていった。再開発が本格的な富裕化に結び付いていったのは7区,8区,16区の高級住宅街から始まったパイオニア的な街づくりであった。これらの推進者はとりわけ文化的な事業にかかわる専門家であった。彼らが古い工場跡地を近郊の大きな開発の街づくりやパリ東部の運河沿いも再整備して景観を大きく変えていったのである。その後に18区のモンマルトルの丘や緑地,オスマン風の建築の住宅街に熱心に取り組んでいったのは優れた建築家やエンジニアの一群であった。同時に彼らはできる限り労働者階層の人々や移民の住まう環境の悪い地区をその富裕化の対象から除外しようとしたことも事実である。これらの地区の商店街や庶民の住宅地はこのパリの富裕化現象のブレーキの一部になった。
中間層のパリ脱出―ジレジョーヌ化
今日,社会住宅はパリ市の住宅の依然として15%しか占めておらず,2001年以降の左翼系政党出身者による市政によってふたたび社会住宅の推進がなされてきている。都市としての都心部再開発政策の継続とパリ市内北東部におけるビレット地区のような文化的な観光事業を推進すること自体,パリ市全体が明らかに富裕化に向かって行っていることを示すものである。しかしパリ1区から20区の市街地では新規の不動産物件は段々少なくなっていき,パリの新規住宅着工件数は増えておらずその価格は一般の平均的なフランス人の購買力では新規の住宅購入者は今や不可能になったさえ言われている。今やパリ市内の16区,7区,8区,6区の高級住宅街のある区域ではアパルトマンの1㎡の売買単価は1万ユーロ以上となってしまった。フランス人の10%以内の富裕層か親からの遺産相続でない限り購入することは一般のフランス人には不可能になった。中間階層のパリからの脱出が始まった。
[注]
- (1)イル・ド・フランス州は1972年に従来のパリ地域圏を改名。
- (2)Anne Clerval, La gentrification des métropoles européennes,
- (3)社会住宅:フランスでは戦後の低家賃住宅(HLM)政策として登場,徐々に重点が移民階層を受け入れるSRU法ではこれらの住宅比率が最低20〜25%になるよう義務付けられている。
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