世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1308

タイ総選挙を考える

山本博史

(神奈川大学経済学部 教授)

2019.03.18

 政党政治家や多くのタイ国民が待望する総選挙が3月24日の日程で行われることになった。2014年5月のクーデターから軍による政治支配5年の長期にわたり続いたが,その背景にはタイという国家の成立にまつわる歴史的な対立の構図がある。

 タイの政治学者でアネーク・ラオタマタットは,1990年代初め従来の支配的タイ政治体制論である官僚政体論に対抗するリベラル・コーポラティズム論を唱え注目された。彼は1995年タイ語で『2都の民主主義(ソーン・ナカラ・プラチャーティパタイ)』という短い書物を書いている。アネークはこの著作のなかで1990年から1993年のタイの政治状況を分析し,「政府を選ぶのは田舎で,政府を倒すのは都市」という理論を立てた。アネークは2001年1月の選挙圧勝によるタクシン首相の登場により,当初タクシンが都市と農村の両陣営の支持を集めていたため,両者の対立は融和に向かうと考えていたが,対立解消には至らなかった,と述べている。対立解消に至らなかった理由は,民主主義と相いれない社会構造に由来している。成り立ちも属性も全く異質な2都(田舎と都市=バンコク)から,タイという国の近代が形成されてきたからであり,民主主義による都市の特権の喪失を都市が容認しないことに問題の本質がある。

 筆者は現在編している著作で,この2都の社会構造を以下のように分析した。

 タイ(アユタヤ)はアンソニー・リードが唱える15世紀から17世紀の「交易の時代」における東南アジアで有力な港市国家であり,インド洋交易と東シナ海交易の結節点として,多くの外国人を政権中枢に登用した国際的な国家であった。現王朝のラタナコーシン朝(1782〜)にとっても海外との交易は重要で,19世紀には輸出用の商品として,砂糖,胡椒,タバコ,スズなどが,移入してきた華人層と協業して開発された。交易の実態では,インド洋交易の比率が低下し中国や英領海峡植民地との交易が重要となったが,アユタヤ伝統の「王室独占」により,1855年まで西欧は自由な貿易が行えない体制は実質維持された。海峡植民地を含む中国交易の拡大と中国本土の荒廃から多数の中国人が流入し,首都バンコクは人口の過半を中国系が占める不思議な都市空間が形作られた。一方,広範な後背地である農村地帯はタイ系の民族が優位な居住空間であり続けた。王族と官僚を中心とするタイ人のエリート層に中国系など多民族の中から経済的に成功をおさめた者が官僚として取り込まれていった。

 チャクリー改革を経て,近代官僚制(軍も含む)を確立したことにより,首都の持つ権力は圧倒的なものとなり,常に後背地である農村部に対して優位性を維持してきた。国際的なコスモポリタン的都市と農村部である田舎の分断は大きく,タイという国家を規定する大きな要因となった。

 西欧からの圧力による1855年の開国後,一次産品が主要輸出品となる経済ができあがった。特に米産業はタイ経済の屋台骨となった。その利益の大きな部分は首都であるバンコクの住民で政治を支配する,王族,官僚や商業活動に従事する中国系が獲得し,地方には農業,主に稲作を生業とする農民が世界経済とのリンクによる恩恵をあまり受けることなく併存する,ある種の都市と農村という二重性をもつ国家であった。農村の不利な地位を象徴する制度としてコメの輸出税がある。農村は輸出米にライス・プレミアムと呼ばれる輸出税を課せられ,ただですら低い国内コメ価格をさらに低下させる政策が採られた。ランサンの研究では,1969年のバンコクのFOB米価の農民の受け取り分は,44.3%に過ぎず,ライス・プレミアムの輸出税が42%にも及んでいる。農業部門からの収奪の激しさを物語る数字であろう。この制度は1986年まで続き,プラザ合意以降の高度経済成長にタイが突入するまで,農村部を搾取し続けた。

 バンコクに居住する保守的なエリート層はタクシン政権(2001〜2006)が誕生するまで田舎の農村部を支配してきた。民主化の進展により,たとえ田舎の農民票が多数を占め,政権基盤であっても,政治の実態は都市住民の利害を優先し,田舎の利害が優先される政策がとられることはなかった。政府の命運は都市の支持にあったから常に政府は首都バンコクを向いて政治を行っていた。しかし,タクシン政権の政治姿勢は農村部の課題に配慮する政治も行うようになったことで,従来の政治とは一線を画するものであった。

 主権在民の民主主義が政治原則となる時代にもかかわらず,タイのもつこの二重性を成り立たせる保守的統治原理が民主主義と衝突し多くの軋轢を生みだすこととなった。既得権益層は,2006年のクーデター以降,司法,ナショナリズム,王政のカリスマ,官僚組織などあらゆる手段を使って,民主主義の大本であるシュンペーターが定義した「手続き的民主主義」=選挙を無意味なものにしようとしている。5年近い軍政の後,国民はどのような審判を下すのであろうか。TPP11への参加を表明したタイは日系企業のグローバル化の重要な生産拠点である。タイの真の政治的安定には民主化は避けられないことを,我々日本人も理解するべきであろう。

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