世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
デジタル時代に新たな飛躍を目指すインド
(国士舘大学 教授)
2019.02.25
2018年11月末の1週間,インドのバンガロールを訪れた。インドへは2008〜11年の3年間,毎夏訪れたが,その後は遠ざかっていた。
バンガロールは今世紀初めに世界のICT企業のオフショア開発先として世界で確たる地位を確立して以降,その地位を維持し続けている。この間のICTの発達は目覚ましく,最近ではビックデータの利用,人工知能(AI),産業ロボットなどが産業と社会へ急速に普及している。インド,バンガロールはそれらの変化にどう対応しているのだろうか。今回訪れたのはそうしたことが気になったからである。調査は,名古屋工業大学の徳丸宜穂教授とインド国際情報大学バンガロール(IIIT-B)のマンダル・クルカルニ講師と行った。訪問を通じてバンガロールに誕生するスタートアップ・起業の現実の一端に触れた。
2010年代になって,ICTの発達はこれまでとは質的に異なる変化が起こっているように見える。ICTを基盤とする役務活動のオフショアリングは,最近まで低賃金がとりわけ注目されてきた。コスト削減がオフショアリングの第1の目的であった。しかし,最近では高度な専門技能を有する大量のエンジニアが求められるようになっている。こうした変化にいち早く対応しようとしているのがインドだろう。企業家精神をもったICTエンジニアの育成に向けて,インドは官民を挙げて起業環境の整備に乗り出している。
インドのICTエンジニアの3分の1,100万人がいるとされるバンガロールがその先頭に立つ。インド全国ソフトウェア・サービス企業協会(NASSCOM)によると,2017年には1000社のスタートアップ企業が誕生し,スタートアップ企業総数は5000〜5200社に上る。直近の報道では2018年には1200社が誕生し,スタートアップ企業の合計は今では7000社に達している(日経新聞2019年1月11日付)。この内の4分の1以上がバンガロールで起業されている。
筆者らもNASSCOMバンガロール事務所を訪れて,スタートアップ計画の説明を受けた。NASSCOMの事務所はインキュベーション施設(ウェアハウス)を併設しており,その現場も視察できた。NASSCOMは2013年にスタートアップ企業1万社計画(‘10,000 Start-ups’ Initiative)に乗りだしている。このイニシアティブは,2023年までに1万社のスタートアップを達成する,つまり1年に1000社を目標にICT企業の起業を目指す計画であり,NASSCOMがICT企業の誕生に向けて「エコシステム」を構築する。つまり,財政支援のほか,インキュベーション施設の設置,起業セミナーの開催,専門家のアドバイス,企業ネットワークの構築など様々な支援を通じて起業家精神をもつ人材を育成する起業環境を創り上げるというものである。当初の試行錯誤を経た過去5年間の実績は,4000以上のスタートアップを誕生させている(NASSCOM提供資料)。
ICTを利用するスタートアップ計画はインド政府も乗り出している。モディ首相は,2016年1月16日にスタートアップ・インド・アクション・プラン(Startup India Action Plan)を立ち上げ,国を挙げての起業計画に着手した。2018年11月23日のスタートアップ・インド・アクションプランの現状報告によれば,インド政府産業政策促進省(Department of Industrial Policy and Promotion: DIPP)により1万4036社がスタートアップ企業としに認証され,様々な支援が行われている。2016年4月1日には,スタートアップ・インド・ハブが業務を開始し,電話,eメール,ツイッターを通じて11万4000件以上の質問をさばいている。同ハブは起業,財政支援,ビジネスプラン,売り込み支援など660以上の起業で支援を行っている。スタートアップインド・オンライン・ハブもオンラインプラットフォームとしてサービスを開始している。
今回のスタートアップ企業とNASSCOMへのインタビューで筆者の心に強く残った言葉のひとつは「スタートアップ・エコシステム」である。ICTの技能を持つ優秀な人材に企業家精神を生む環境整備を業界,州政府,中央政府が一丸となってつくり上げようとしている。モディ首相は,スタートアップ・インド・アクションプランのパンフレットに次のように書いている。「スタートアップ・インドは,インド政府の旗艦イニシアティブであり,この国のイノベーションとスタートアップを育成する強力なエコシステムの創出を意図している。それは,持続的な経済成長を推し進め,大規模な雇用機会を生み出す」と(Sturtupindia Action Plan, January 16, 2016)。
もう1つ,印象に残った言葉は「プラットフォーム」の開発である。グーグルやフェイスブックを産んだようなネットワーク社会のプラットフォームを開発する。そうすれば,世界的な企業家になることも夢ではない。その事例は事欠かない。インドには,そうした大望をもった有能な人々が大量に輩出している。
訪問先の企業は,バンガロール繁華街のビルの一角に事務所を構える企業,住宅地の中に事務所を構えるアメリカ・シリコンバレー帰りの見るからに秀才の企業で,皆若かった。彼らはバンガロールがICTエンジニアに優れた起業環境を提供している,と口をそろえて言う。また,訪問先の経営者の1人の執務室の机は,アップルのスティーブ・ジョブの特大の顔写真が貼られた壁を背にしておかれていた。他の企業家は,貧しいインド社会の現実を前に,ICTの技術を彼らの幸福のために使おうとしていた。彼は,利潤を求める社会観をきっぱりと排して自らのビジネスを社会のために使うと熱っぽく主張する。貧しいリキシャの運転手や木材の荷揚げ作業員の生活を,ICTを用いて豊かにしようと格闘している。
訪問したJETROバンガルール事務所作成の2018年11月付の資料によれば,2017年の社会問題に対応するスタートアップ数は325社,そうだとすると約3分の1のスタートアップがICTをインドの社会問題の解決に使おうとしていることになる。
ICTを武器に先進国からの単なるオフショア先からイノベーションの拠点に変えようというインドのエコシステムは,アメリカやヨーロッパの先進国に目を向けている人々の起業を促しているだけではない。足許の社会を変革しようとする人々の起業も生み出している。そして,世界的なICT企業が彼らの能力とアイデアを得ようとバンガロールに進出している。IBMもフェイスブックもマイクロソフトも,有望な開発者,ソフトウェアを自らの傘下に収めようとスタートアップ・イニシアティブに資金を提供している。
これらの様々な思惑がインドの,特にバンガロールにスタートアップのエコシステムを生み出している。それが今やインドに成長をもたらし市場を生み,さらにその市場を基にイノベーションが生み出されている。
バンガロール滞在中に興味深い新聞記事が目に留まった。ひとつは,混雑度と市内の移動性指数の相関をインドの都市で比較したものである(The Hiudu, Nov.23, 2018)。バンガロール,ムンバイ,デリー,ハイデラバード,チェンナイなどの何れもインドのICT企業の集積都市は,混雑度でインドの平均を大きく上回っていると同時に移動性指数で平均を大きく下回る。つまり移動コストで大きなロスを生み出している。インフラが成長に追いつかないのである。同じ新聞には,バンガロールの第2期メトロ建設工事として,2022年までに合計で6つの地下鉄路線の建設あるいは延長工事計画を伝えていた。ここにも地下鉄が開通する予定である。筆者らの宿泊したホテルはエレクトロニクス・シティにあり,ここには世界的なインドのICT企業インフォシスの本社とインド国際情報大学(IIITバンガロール)のキャンパスがある。エレクトロニクス・シティはバンガロール郊外の高級住宅地でもある。この都市の景観も今後はさらに大きく変貌するだろう。
またほかの新聞には,世界主要国28か国の20787人の成人に「あなたの国は良い方向に向かっているか,悪い方向に向かっているか」と問う国際アンケート調査結果のグラフも載せられていた(Business Line Bangaluru, Nov.24, 2018)。これによると,良い方向に向かっているとする割合はインドが67%,中国の92%,サウジアラビアの78%に次いで第3位であった。平均は40%である。7年振りのバンガロール訪問は,大きく変貌し,かつ躍動するICT産業都市への旅であった。
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平川 均
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