世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1131
世界経済評論IMPACT No.1131

マハティールの夢:マレーシアにおけるパラダイム・シフトの行方

池下譲治

(福井県立大学 教授)

2018.08.13

 2018年5月,マレーシアにおいて独立以来初の政権交代が起こった。今回の政権交代は,長年に亘る市民権運動の勝利を意味するものでもある(注1)。この結果,マハティールが1991年,「ビジョン2020構想」を達成する上で克服すべき戦略的課題として打ち出した「マレーシア型民主主義」の育成と地域的にも民族的にも統合された運命共同体としてのマレーシア国民である「バンサ・マレーシア」の実現に向けてのパラダイム・シフトがゆっくりとではあるが確かに始まった可能性がある。

 まず,注目したのは国家の運営体制の変化である。これまでの連立与党・国民戦線(BN)の中核を成してきた3党は各々の民族のみの党員で構成される,いわば,各民族の利益代表者からなる政党の集合体であった。一方,新たな連立与党・希望連盟(PH)の中核を成す人民正義党(PKR)および民主行動党(DAP)は夫々マレー人と華人を主たる支持基盤とするものの,どの民族も党員として加入できる。いわば,すべてのマレーシア人に開放されている党の集合体と言っても過言ではない仕組みが出来上がっているのである。

 次に,マハティールが唱える「マレーシア型民主主義」について明らかにしておく必要がある。米国務省は,世界各地の民主主義制度には微妙な違いがあるが,民主主義政府を他の形態の政府と区別する一定の原理と慣行が存在する,として10の主な原則を提示している(注2)。これを,権威主義体制と言われるマレーシアに照らし合わせた際,問題とされてきたのは「人間の自由を守る一連の原則と慣行」と「自由で公正な選挙の実施」の2つの原則の欠如であった。

 これらは「市民社会」の成立と密接に関係している。なぜなら,近代市民社会においては,個人の自由が保障されることがその成立要件となっているからである。今回の選挙では,クリーンな選挙の実現を目標に掲げるNGOの連合体「ベルシ」のマリア・チン・アブドラ理事長が野党連合系無所属として出馬し当選を果たしたことで,自由で公正な選挙を通じた市民社会の実現を目指すムーブメントはひとつの到達点に達したとみることができる。また,同年8月8日には反フェイクニュース法廃止法案が国会に提出されるなど,自由な意見が言える社会への変革も徐々にではあるが進みつつある。

 一方,民主主義諸国家のあり方は多様であり,マハティール自身,過去に「アジア諸国は自国に適合する民主主義を開発して自由主義市場システムを採用すればよい」と主張している(注3)。そして,今回の首相就任後,初の訪問先となった日本でのインタビューにおいて,「国内に不平等を抱えた多民族国家の要素を考慮する必要がある」として,欧米型の民主主義とは今後も一線を画すと強調している。つまり,マレーシア型民主主義の最大の特徴はブミプトラ政策の当面の継続を前提としたものと見做すことができる。

 マハティールのこうした発言の背景には,自伝的回顧録で慨嘆したように,マレー人の地位はブミプトラ政策によって大きく向上したものの,新たな問題が浮上しているとの認識があるものと思われる。すなわち,「NEPで制定されたアファーマティブ・アクション(ブミプトラ政策)は自らの特別な地位によるものであり,差別的な優遇措置は永久に維持されるべき」といった甘えの構造がマレー人社会に蔓延しているというのだ。これを,「新たなマレージレンマ」であると断じ,困難だが克服しなければならない問題としている(注4)。

 わけても,マハティールが問題視しているのはマレー人に巣食う金権体質と腐敗である。このことから,新政権では汚職撲滅に向けた取り組みは第一に取り組むべき課題と捉えているものと思われる。一方,それは,マハティール自身の身にも降りかかるリスクがあることから,どこまで徹底するか疑問を呈する向きがあることも事実である。一縷の望みは,93歳となったマハティールの中に新たなレガシーを残したいとの思いとともに,マズローが唱える「自己超越欲求」が芽生えている可能性である。

 ところで,マハティールが唱える「バンサ・マレーシア(統合されたマレーシア国民)」の概念には2つの特徴がある。第一に,憲法におけるマレー人の優先的地位を受け入れることを前提にしている点。次に,バンサ・マレーシアは「政治的なアイデンティティ」としてのみ用いられるものであり,人類学的な意味であるマレーシア民族として扱っているのではないという点である(注5)。この2つの特徴によって,むしろ,より現実的な概念として位置付けられ,マハティールが唱える「マレーシア型民主主義」とも符合する。

 このように,パラダイム・シフトに向けた動きは着々と進んでいる。マレーシアの場合,こうした変革は一気には進み難いというのが筆者の持論である。マハティールはビジョン2020を策定した際にも,マレーシアの発展は経済という次元でのみ考えてはならず,あらゆる次元・分野において十分に発展する必要があると主張している。この点においてマハティールはマズロー(2001)が唱える「社会改善理論(ゆっくりと革命を実現する理論)」の考え方に近いとみることができる(注6)。「バンサ・マレーシア」や「マレーシア型民主主義」の実現に向けたパラダイム・シフトは,独立から今回の政権交代までほぼ2世代必要だったように,調和を保ちながら漸進的にかつ確実に進んでいくことが期待される。

[参考資料]
  • マズロー(2001)『完全なる経営』日本経済新聞社 ほか
[注]
  • (1)The Diplomat(2018/5/29)
  • (2)http://www.salsburg.com/Principals_of_Democracy/
  • (3)1995年「アジアの未来」(日本経済新聞社主催)での発言による。
  • (4)A Doctor in the House(2011)MPH Group Printing pp.229-237
  • (5)モハメド・ムスタファ・イスハック(2015)『マレーシア国民のゆくえ』p.201
  • (6)マズロー(2001)は「単独で社会全体を自動的に変えてしまうような変化は存在しない」として,「社会の変革は,その最前線となる全領域で変革に着手し,全体としての社会の中にあるあらゆる制度とその下位制度を同時に変化させることによって実現されるものである」と論じている。

*本稿の詳細は,『ふくい地域経済研究』第27号(2018年10月発行予定)に掲載予定です。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1131.html)

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