世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3609
世界経済評論IMPACT No.3609

AIハブを目指すマレーシア:「理工系の学位保持者の割合が世界2位」の表裏

池下譲治

(ITI 客員研究員・元福井県立大学 教授)

2024.11.04

 マレーシアにおけるデータセンター(DC)開発の勢いが止まらない。アマゾン(62億ドル),マイクロソフト(22億ドル),グーグル(20億ドル)に続き,オラクルも24年10月,65億ドル以上を投じてDCを建設し同国をクラウドインフラのゲートウェイにする計画を発表した。クッシュマン&ウェイクフィールドは同2月に発表した「DCレポート」の中で,「マレーシアのDC市場は,アジア太平洋地域で最も急成長している市場であり,今後5年間で600%の成長が見込まれる」としているが,予測を超える可能性もある。

 マレーシアにこれほどDC投資が集中している要因には,米中対立やシンガポールからの波及効果をはじめとする「天の時」,「地の利」がある(8月19日付本コラムNo.3523参照)。一方,忘れてならないのは,世界をリードするAIハブになる千載一遇のチャンスとして,マレーシア政府が税制優遇のみならず,さまざまな戦略的措置を講じていることである。中でも,高い評価を得ているのは,DCの許認可に関するワンストップショップの存在だ。これによって,建設から運用開始まで僅か15か月以内で完了することが可能となっている。業界関係者によれば「これほど早くできる場所は世界中どこにもない」。

 では,マレーシアは今後,アンワル首相が目指す「AIハブ」になることができるのであろうか。鍵を握るのは電力と冷却用の水,そして人材である。特に,AIデータセンターは多くのスペース,電力,水を必要とする。世界的なエネルギー危機を背景に電力料金の上昇が続く中,電力と土地が安価なマレーシアは香港やシンガポールなどと比べて有利な条件を備えていると言えよう。さらに,業界関係者によれば,半島マレーシアでは発電容量の30~40%が予備電力として保持されており,新たなDCからの需要にも十分対応可能である。しかし,10年後は需要過多に陥るとの推計もあることから,慎重な管理が必要で,何より,環境への影響を考えれば,グリーンエネルギーへの対応が必須なことは言を俟たない。

 こうした中,政府はDCの電力と水の使用を改善するため,新たなガイドラインを設ける。今後,1~2週間以内に最終決定される「DCの持続可能な開発ガイドライン」には,インセンティブの要件として,電力使用効率(PUE),水使用効率(WUE)に加え,炭素使用効率(CUE)が含まれる。これは,再エネ比率を2050年までに70%に高め,カーボンニュートラル化を実現するという政府目標に即したものである。ただ,ガイドラインに拘束力はなく,その効果については今後見守っていく必要がある。

「理工系の学位保持者の割合が世界2位」の表裏

 一方,すでに深刻な事態となっているのは,世界中でエンジニアなどの人材不足が広がっていることだ。アップタイム研究所によると,必要な人材が確保できないDC事業者は全体の5割を超える。ただし,必要とする人材の中身については,発展段階による違いも見られる。即ち,DC市場がすでに成熟している欧米では,経験豊富な専門家が一斉に退職する「シルバー津波」が押し寄せており,若くても経験豊富な人材を求める傾向があることが候補者選びを困難にしている。一方,近年,DC市場が急拡大しているものの,総じてまだ歴史が浅いアジア太平洋地域の新興国では,新規雇用は主に職業学校を通じて行われている。

 こうした状況を踏まえた上で,マレーシアのDC人材市場を見渡すとどのような風景が見えてくるだろうか。国際経営開発研究所(IMD)の2024年版「世界タレントランキング」によると,マレーシアは「理工系(STEM)の学位保持者の割合」において,世界第2位(40.2%)の国となっている。これには,政府のイニシアチブと経済的ニーズが関連している。マレーシアは,マハティール元首相が打ち出したマルチメディアスーパーコリドー(MSC)構想を皮切りに,90年代からIT先進国化に向けての取り組みを進めてきた経緯がある。先進国の技術を正確かつ迅速に取り入れるため,科学や数学の教授言語を英語に切り替えていったのもその表れのひとつだ。さらに,政府は,将来の経済的ニーズを満たすため,STEMの学生の割合を60%にまで引き上げる目標を掲げ,STEM教育の強化や同分野への奨学金制度の拡充などを行っているといった背景がある。

 ただ,ここで,疑問なのは,「では,なぜ,マレーシアで深刻なエンジニア不足が生じているのか」ということである。筆者は,その答えは,国の要請に応えるため,質より量(STEM定員の充足)を重視する高等教育機関の存在と入学における特定民族への偏重にあると考える。マレーシア国民大学(UKM)のラソール教授によると,「高等教育機関は入学ニーズを満たすため,STEM C(日本の高校に当たる後期中等教育に於いて,純粋な科学ではなく職業学校に近い科目を選択できるコース)のバックグラウンドを持つ学生を受け入れることを余儀なくされている」という。政府は02年,公立大学への入学における人種に基づく定員制度を廃止した。しかし,定員制は公立大学の予科に当たるmatriculation college(大学入学プロセス)に残っており,ブミプトラ(マレー人と先住民族)に対する枠は90%だが,理学部では2年間のmatriculation collegeはブミプトラのみに提供されている。こうした政策が多様な人材の適切な入学を阻害している可能性は否定できない。

 ところで,そもそも,マレーシアでは理工系科目の人気が低いことから,子供の頃からSTEM教育に慣れ親しむことの必要性が叫ばれている。このため,政府は,テクリンピック,メーカーラボ,全国科学週間などのイベントを通じて,子供の頃からSTEM分野への関心を育むような教育プログラムに取り組んでおり,昨年は合計で270万人以上が参加するなど一定の成果を挙げている。

 このように,DCの要求に適う人材は少ないものの,マレーシアには理工系の学生が多く英語能力も高いことから,インターンシップやOJTなどを通じて必要な人材を育てる方法は有効と思われる。また,理工系学部の過半数を占めるマレーシア人女性の活用についても阻害要因の排除を含め検討すべきである。

 最後に,マレーシアが持続可能なAIハブとなるためには,「天の時」,「地の利」に加え,人種や性別を超えた「人の和」を育んでいくことが肝要であることは疑う余地がない。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3609.html)

関連記事

池下譲治

最新のコラム