世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
今日のドイツの成功をもたらした改革(その3):日本とドイツのリーダーの違い
(東京大学政策ビジョン研究センター 客員研究員)
2018.03.05
ドイツは東西統合後,1990年代から2000年代の「欧州の病人」と呼ばれた苦難の時期を経て,近年再び欧州の雄として復活したが,かたや日本はどうであろうか。私がベルリンを最初に訪れた1988年当時,日本はバブルに沸き,そのバブル崩壊後すでに失われた4半世紀が過ぎたが,残念ながら日本の国際的プレゼンスは小さくなる一方である。「欧州の病人」時代に,ドイツは数々の改革を断行してきたが,日本はその間何をしていたのだろうか。
日本とドイツは,日本が明治期ドイツの制度から多く学んだこともあり,色々な面で共通性がある。両国ともに戦後奇跡的な経済復興を成し遂げ,やがて90年代経済の停滞に陥ったことなどからも,2000年代初めごろまで類似点をあげられることがよくあった。しかし,2010年代に入り日独の差が開き,今やドイツは欧州経済の牽引車となった。90年代末から2000年代のドイツと日本の政府や企業の改革の違いについての詳細は,『世界経済評論』2018年1/2月号の拙稿「ドイツのハイテク企業躍進をもたらした改革―日独の政策と企業を対比して」に説明を譲ることとし,以下では,日独のリーダー達の違いについて少し触れたい。
社会や大きな組織が既存の体制を改革し大転換を成功させるには,年功や縁故などではなく,能力主義で優れたリーダーが選ばれる必要がある。そしてそのリーダー達が,信頼性のある実証的なエビデンスを示しながら,ダイレクトな議論によって,改革案を形成していく過程が必要である。ドイツは日本と似て集団主義を重視する面も強いが,こと人事については極めて能力主義的で,日本のように年長だからという理由で優遇することはまずない。そして年齢などに関係なくダイレクトに議論をするが,そこで重要なのは説得力のあるエビデンスを示し,論理的に話せることで,それで能力があるか,リーダーとして適格かが判断される。
シュレーダー前首相やメルケル首相が親の七光りもなく実力だけで這い上がり,(日本的に言えば相当若い)50歳代半ばで首相になれたのも,このようなドイツの環境があるからだ。ドイツに限らず,欧州では政治家や要職にある人たちが口角泡を飛ばして公開の場でディベートすることはよくあり,米国よりもすさまじい。さすが,欧州は民主主義の生まれた地であると,私はよく感心したものである。
また特に21世紀に入り,世界の社会科学の進歩は日本よりはるかに速く,政策や経営に役立つエビデンスを示すための実証研究の質が大きく向上し,それが次第に実務にも生かされるようになってきた。一方,筆者がこの2年間ほど日本の科学技術政策や大学政策について調査したところ,政府機関などの報告書等に,とても科学的にエビデンスと言えないものをエビデンスとして書いていることが数多く散見され,それらに基づいて政策が決まっていることが判明した(その一部を拙稿「低下する日本の基礎研究力」(『エコノミスト』2017年9月5日号)に紹介しているので,参照されたい)。
残念ながら,実は日本の社会科学分野の研究は非常に遅れており,世界の先端的な手法を用いて実証研究をできる人は大変限られている。その重大な要因の一つは,日本の大学の研究者が学術面でも,人事面でも停滞していることであるが,もう一つの大きな要因は,日本では政府や関係機関が外部からの批判を嫌って,データを積極的に公開しないため,データを使ってエビデンスを探るような実証研究を行える研究者が育たないことである。さらに悪いことに,外部の研究者は政府に遠慮して(あるいは恐れて),政府に都合が悪いような実証研究をしようとしないことがある。また,誰かが政策を批判する研究を発表すると,それを「お上に楯突くのはけしからん」と非難する保守的な人が多い。
欧米では政府がデータを積極的に公開して,外部の人に研究してもらい,その結果を役立てることが潮流となってきているが,日本の現状はまだほど遠い。米国はもともと情報公開が進んでおり,そのデータを使った研究の先駆者であるが,欧州でも欧州連合(EU)が音頭をとって加盟国が国際比較可能なデータを収集し,広く公開してきている。特に2000年代以降,PCや分析ソフトの性能が向上し,安価になったため,多くの若手研究者が政府らの提供する数量データを使い,政策などのエビデンスを出すような研究を盛んに行うようになった。このようなことから,海外では研究の質が飛躍的に向上したが,これと比べると,日本は前世期からほとんど進化しておらず,研究手法も全体としてほぼ10-15年遅れの状態である。
ドイツはメルケル首相も物理学の博士号を持つ元科学者であるが,他の政治家も博士号を持つ人が多い。各政党の事務局も博士号を持つ専門家の職員を多く抱え,党が組織として政策の立案をしている。また,政府は情報やデータを外部の研究者に公開して研究を促すとともに,政府内にも博士号を持つ職員が多くいる。このため,政府や各政党の出す政策案のエビデンスの信頼性については,互いに厳しい目で審査するようになっている。これは日本との大きな違いである。
また,日本との貿易交渉に関係する欧州の公的機関の人が,「我々は交渉に入る前に,日頃から組織的に,広く中小企業も含めて,各国の企業の要望や実態を把握して交渉の準備をするようにしている。大変な作業だが,こうしたエビデンスがなければ,どういう交渉を日本とするか決められない。しかし,日本政府側は交渉において,一部の企業の利益しか代表していない」と言っていた。私が日本政府の担当者に聞いたところ,「とても全体の意見を集めてまとめるようなことはできないので,交渉前に親しい一部の企業にヒアリングをして交渉案を決めるのがせいぜいである」とのことである。すなわち,日本は交渉に入る前の段階で,もう既に負けているのである。
信頼できるエビデンスが出てこないようでは,政策決定に関わるリーダー達が,エビデンスをもとにダイレクトに議論できるようにはならない。ただし,ダイレクトな議論の礎となるような信頼性の高いエビデンスが出てくるには,リーダー達が率先して,政府などが持っている様々なデータを研究者に公開し,エビデンスを生み出す研究が可能となるような環境を整えなければならない。すなわち,要はリーダー次第であるが,日本のリーダー達は,欧米ら世界の潮流とは逆に,エビデンスを出すための情報公開やダイレクトな議論に大変消極的である。
社会人類学者の中根千枝氏は,中国,インド,チベットでは日常は日本より年長者を敬う傾向があるが,ここぞという時には年齢に関係なく,シビアで率直な議論をすると評している。彼女が今からちょうど半世紀前に出版した本の中で,日本について下記の記述があるが,これは色褪せた過去のことではない。むしろ学生運動が華やかなりし半世紀前よりも,今さらにその傾向が日本では強くなっている感があるが,これは世界の流れとは反対である。
「他の国であったならば,その道の専門家としては一顧だにされないような,能力のない(あるいは能力の衰えた)年長者が,その道の権威と称され,肩書をもって脚光を浴びている姿は日本ならではの光景である。しかし,この老人大国は,決して日本人の敬老精神から出てくるものではない。それは,彼がその下にどれほどの子分をもっているか,そして,どのような有能な子分をもっているか,という組織による社会的実力(個人の能力ではない)からくるものである」『タテ社会の人間関係:単一社会の理論』(1967年)。
今も昔も日本の政策,それから企業や大学の経営にもっぱら影響を及ぼしているのは,中根千枝氏の言う,組織による社会的実力をもつが能力のない(あるいは能力の衰えた)者ではないだろうか。さらに悪いことに,いわゆるサラリーマン社長や,2世,3世の時代と呼ばれるように,半世紀前と比べ,今は総じて「組織による社会的実力(個人の能力ではない)」を持つ親分が段々内向きになり小粒化したためか,有能な子分を持ちたがらず,社会や組織が能力や活力を失ってきているように見える。
これほど科学が進歩した時代に,信頼できるエビデンスも示さず,厳しい議論もせず,能力のない(あるいは能力の衰えた)リーダー達が,日本の政策や企業を率いているようでは,日本の将来は極めて危うい。これらを根本的に変えない限り,日本が世界の進歩に伍していくための大きな改革はできないだろう。(完)
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