世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.740

異次元緩和の限界が明らかにした「岩田・翁論争」の勝敗

小黒一正

(法政大学 教授)

2016.10.24

 先般(2016年9月下旬),日銀は,量から金利を柱とする新たな金融政策の枠組み(長短金利操作付き量的・質的金融緩和)を導入し,実質的に「異次元緩和」(量的・質的金融緩和)の転換を示唆した。今後は,短期金利はマイナス0.1%,長期金利は誘導目標の0%に従うよう,長期国債の買入れを柔軟化する方針だ。

 この転換は,マネタリーベース目標でデフレ脱却を図る壮大な実験が失敗し,いわゆる「岩田・翁論争」は改めて翁氏に軍配があがったことを意味する。

 岩田・翁論争とは,1990年代前半,上智大学教授(当時)であった岩田規久男氏(現・日銀副総裁)と日銀調査統計局企画調査課長(当時)であった翁邦雄氏(現・京大教授)との間で展開された「マネーサプライ(マネーストック)論争」だが,「日銀がマネタリーベースを増やせばマネースットックも増加し,インフレ圧力を高めることが可能」とする岩田氏に対し,そのような単純な関係を否定する翁氏との論争であった。

 このマネーストックとマネタリーベースの関係や,その効果に関する論争は,岩田・翁論争で決着していたはずだが,マネタリーベース目標を重視するリフレ派の意見が急速に強まり,2013年4月から日銀は異次元緩和をスタートした。

 開始当初は成功したように見えたが,長期国債を年間ネットで80兆円も購入しているにもかかわらず,マネーストックは想定よりも伸びず,最近は原油価格の下落等の影響で再びデフレに戻りつつあった。日銀が購入する長期国債のボリュームが大き過ぎることから,2017年や2018年頃には国債市場で取引する国債が枯渇する懸念が指摘され始め,マネタリーベース目標の限界が徐々に明らかとなってきた。

 このような状況の中,日銀は異次元緩和の転換を行い,改めて翁氏に軍配があがった恰好となった。この転換は,異次元緩和の限界(=マネタリーベース目標を重視するリフレ政策の失敗)を暗黙に認め,その軌道修正を図ったことが大きなポイントで,一定の評価ができるが,今回の壮大な実験のツケは大きい。

 というのは,異次元緩和の裏側で日銀の損失が急拡大しているためである。その最も代表的な事例が,日銀が「オーバー・パー」(額面を上回る価格)で長期国債を購入(買いオペ)することにより抱える損失である。例えば,日銀が額面100円の国債を市場から101円で買いオペし,償還満期まで保有すると,100円しか償還されないので1円損をする。

 では,実際の長期国債に関する損失(オーバー・パー)はどのくらいか。まず,上記事例の額面価格(100円)に相当する長期国債の総額は,「日本銀行が保有する国債の銘柄別残高」から把握できる。

 また,上記事例の取得価格(101円)に相当する長期国債の総額は,日銀の「営業毎旬報告」から読み取れる(注:厳密には,日銀は2004年度から長期国債の評価方法を低価法から償却原価法に変更し,額面価格を上回って購入した分は毎年均等に償却している。このため,営業毎旬報告は,償却を行った後の値)。

 例えば2016年8月31日時点において,日銀の「営業毎旬報告」に計上されている長期国債(均等償却後の取得価格)は339.55兆円である一方,「日本銀行が保有する国債の銘柄別残高」(額面ベース)は330.73兆円となっている。

 これは,保有する長期国債で約10兆円(厳密には8.82兆円)の損失(オーバー・パー)を抱えており,それは日銀の自己資本(=引当金勘定+資本金+準備金)約7.6兆円を既に上回っていることを意味する。

 このため,2015年11月26日,政府・日銀は,日本銀行法施行規則(平成10年大蔵省令第3号)や日銀の会計規程を改正し,国債の償還や売却に伴う損失などに備え,債券取引損失引当金の拡充を進めているが,それが追い付いていない現状を示す(注:債券取引損失引当金は図表の自己資本(引当金勘定)の一部で,日本銀行法施行令第15条及び同令附則第1条の2,日本銀行法施行規則第9条―第11条及び同規則附則第3条並びに会計規程第18条及び同規程附則の規定に基づき計上)。

 なお,デフレを脱却し金利が正常化した場合,保有する国債の金利が低いまま,超過準備の付利だけ高めると逆ざやの状態になり,自己資本を食い潰す可能性もある。例えば,日銀が準備の付利を2%引き上げた場合,逆ざやの損失額は「長期国債の平均償還年限 × 保有する長期国債の総額 × 金利上昇幅」で簡単に試算でき,それは48兆円(= 8 年×300 兆円×2%)に達する可能性もある。

 今後は,このような損失処理も念頭に,異次元緩和の後始末も徐々に検討することが望まれる。

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