世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
マネーの天動説と地動説
(杏林大学総合政策学部 教授)
2024.08.26
宗教的な信条に基づくものを別とすれば,今現在,天動説と地動説が未解決であると考える人はいないだろう。運動の相対性という観点からはどちらが正しいとは言えない,という論点はあるかもしれない。しかし,積極的に天動説の正しさを主張する理論はないだろう。
残念ながら経済学にはそれに相応する未解決の問題がたくさんある。その代表が,貨幣供給をめぐる外生説と内生説である。なにしろこのテーマは,18世紀にジェイムズ・ステュアートがデイヴィッド・ヒュームの貨幣数量説を批判したあたりから,19世紀初頭の地金論争,そしてそれにつづく通貨論争へと続いた。そして戦後になっても,日本では1970年代に小宮隆太郎氏と外山茂氏の論争,そして1990年代には岩田規久男氏と翁邦雄氏の論争という形で再燃したのである。
論争自体はさまざまな問題をめぐって行われているのだが,そこで対立している中心の論点が,その外生説と内生説なのである。同じ論点をめぐって,こうも同じ論争が延々と繰り返されるという現象は,ある意味では不思議としかいいようがない。ま,経済学とはそういう学問なのである。努々,客観的な科学としての姿なんぞを思い浮かべるなかれ。
かいつまんで言うと,一国経済における貨幣の量は,中央銀行がこれを裁量的に増減させることができる,と考えるのが外生説である。これに対して,貨幣の量はそれを需要する人々の行動にも依存しており,中央銀行が意のままに増減させ得るものではない,とするのが内生説である。
もう少し噛み砕いて説明しよう。今日の統計では,貨幣(マネーストック)は,現金と預金からなっている。預金としてどこまでを含めるかによって,いくつか種類があるが,とにかく,現金と預金が貨幣を構成しているのだ。ただし,預金を取り扱う金融機関の手元にある現金は,これを貨幣量に含めない。金融機関は貨幣を供給する側なので,その手元にある現金は,回収されて供給されていない,と考えるとわかりやすいかもしれない。
さて,ここでクイズである。そのように定義された貨幣を,経済全体として増加させるにはどうすればよいだろうか? 実はこれが意外と難しい。真っ先に返ってくるのは「日銀が紙幣を刷ればよい」というものである。残念ながら,100点満点には程遠い。日銀がお札を刷っただけでは,それは日銀の金庫にあるだけで,貨幣量には含まれない。銀行がそれを日銀から引き出しても,それはまだ銀行にある。したがって,貨幣量にはカウントされない。
人々が銀行からお金をおろせばよいだろうか? いやいや,ダメである。そうすれば現金は増えるが,同じ額だけ預金が減るではないか。もちろん,現金を銀行に預けても,預金は増えるが,銀行の手元に行った現金はカウントされなくなる。
ええい,それなら,みんなが一生懸命働けば貨幣は増えるのか? あなたの貨幣は増えるが,あなたに給料を支払った会社の貨幣は減るにちがいない。
お札を刷っただけではダメ,銀行にお金を預けても,お金をおろしてもダメ,一生懸命働いてもダメ……。さて,どうすれば貨幣は増えるのだろうか?
実は,答えは「銀行が貸出を行ったとき」である。銀行は貸出を行うことで,通常は,お金を借りる人の預金をつくることができる。現金として引き出してもよいし,そのまま振込に利用してもよい。いずれにしても,こうして貨幣は増えるのである。
内生説のポイントはここにある。貸出を通じて貨幣が増える以上,お金を借りる人がいなければ貨幣は増えない。人々がどれだけお金を借りたいかは,中央銀行が完全にコントロールできる問題ではないのだ。銀行貸出への資金需要が旺盛であれば,日銀の努力はおおいに報われるだろう。しかし,そうでない場合にはお札を刷っても,貨幣は思うようには増えないということも生じ得る。歴史はしばしばそういう現象を伴ってきた。
しかし,同じ論争が繰り返されてきたこと以上に,一番驚くべきは,政策の採用,その後の経済学への影響という点で,外生説はなぜか常に勝利を収めてきたことである。異次元緩和によってデフレを脱却できる,という考え方は,それ以前に,日銀が異次元に貨幣を増加させることができるという前提に立っている。
日銀はマネタリー・ベース(現金と,銀行が日銀に持つ当座預金の合計)を異次元に増加させた。しかし,貨幣それ自体は異次元には増えなかった。2年間で物価上昇率を2%にすることもできなかった。
単純にどちらの説が正しいか,ではない。一つの理論を客観的真理として普遍的に適用できるほど,経済学は洗練されていないし,現実はそれほど単純ではない。私が強調したいのは,経済学と経済政策に関わる人は,もっと過去の経済理論を学ぶべきだということだ。経済学は所詮,そういう学問なのだから。
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