世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
企業経営視点から見た国家統計
(甲南大学経営学部 教授)
2016.01.18
2015年11月に安倍首相が「1億総活躍の実現」を打ち上げ,その実現のための“3本の矢”の一つに「2020年にGDP(国内総生産)600兆円の達成」を掲げた。現在約500兆円のGDPを600兆円に引き上げる可能性について専門家の議論は喧しい。アベノミクスの成果により毎年名目3%以上の成長率は実現可能である,または国連基準の採用で研究開発費を計上すれば名目GDPを約3%押し上げられるなど様々な見方がある。
一方,高い経済成長を誇ってきた中国のGDPについては,最近の景気後退期にある単年度の経済成長率の高さや過去に発表された各年の成長率に対して識者から疑問が呈されている。前者では,例えば中国の鉄道貨物輸送量や電力消費量などの急下降に対して7%という高いGDP成長率は明らかに矛盾しており実体経済との乖離が大きいというものである。後者では,例えば省政府のGDPの成長率の平均が,毎年国家トータルの成長率をはるかに上回っているのは構造的に矛盾しているというものである。いずれも中国の経済統計には共産党一党独裁体制の中国政府の作為性があるという疑念である。
中国の経済統計が信用できないという今日の議論で思い出すのは,40年以上も前の筆者のインドネシア勤務時の出来事である。当時,インドネシアの首都ジャカルタ市の北部にあった松下電器産業(現パナソニック)の合弁会社「ナショナルゴーベル社」に,入社2年目の新米社員の筆者が2年間派遣されていた。
設立後,まだ立ち上げ段階の途上にあった従業員約1,000人のこの製造合弁会社に,ある日,場違いではないかと思われる少壮の一人の日本人学者が「ミニ講義」をするため訪れた。民間企業を訪問するにしては“外交辞令”のひとつもなく,喜怒哀楽を顔に表すこともなく,事務所内のみすぼらしい会議室で,べニア板を張り合わせて作った粗末な黒板に向かって白墨で難しい算式を書いてインドネシアの経済状況を説明していた。1970年代当時,日本の学者が海外現地法人を訪問した際にはまだ一目を置かれていた時代であり,20歳~30歳代の日本人出向者7名全員は神妙な趣でこの学者の話を拝聴していた。
この素っ気ない淡々と論理的にしゃべる学者は,日本の海外技術協力事業団からインドネシア国家開発企画庁に「経済開発5か年計画」を作成するために顧問として2年間派遣されていた「飯田経夫さん」という方であった。後に独自の視点から発信する理論経済学の大家となり,日本政府の各種委員会や審議会の委員を務められ,紫綬褒章を受章した名古屋大学の故飯田経夫教授である。
この飯田さんの「ミニ講義」で,当時20歳代半ばの筆者に強烈な印象を残した話が「インドネシアのGDPは年度末に政府が決めた数字に,各省庁が人為的に合わせて統計を作って出来上がる」というものであった。毎月の数字を積み上げて年度合計のGDPができると単純に思っていた筆者にとって「まさか」,「そんな馬鹿な」という大いなる違和感が生じた。但し,この飯田さんの話が終わった時に,妙に感激したのは,インドネシアの実態を現場で直視して,本質にずばり切り込んでいるという鋭い視点を感じたからである。そして単に経済理論だけの話でもなく,またインドネシア政府顧問という現場の状況説明だけの話でもなく,それら両方がうまく融合されたロジックのせいか,話にかなり説得力があったことである。
筆者はその後も松下電器の国際部門で国内外に30年以上勤務して,国家統計を見る目が鍛えられた。日米欧の先進国と異なり,中国,インド,インドネシア,アフリカをはじめとする発展途上国では,国家統計を作る行政能力の欠如,統計そのものの不備,政府の国民への懐柔策,諸外国への面子,国際機関から援助金を引き出すための作為的な数字の調整など様々な要因により各種国家統計が出来上がることを知った。一人っ子政策をとる国の人口統計には生まれた二人目の子供は計上されないし,軍が自動車やカラーテレビの密輸を先導する国では,通関統計に貿易の実態は現れないなど枚挙に遑がない。
企業人にとっては,評論家や学者と異なり,統計を作って発表する外国政府の不誠実さやいい加減さを声高に非難したり,各種統計間の矛盾をしたり顔で解説しても何も始まらない。市場という現場,お客様の現場,研究開発の現場,生産の現場,サプライヤーの現場,相手国政府の官庁で直接役人に会って議論する現場などで,強かに磨き抜かれた現場感覚と現場を見抜く鋭い洞察力があくまでも「主」であり,参考資料としての国家統計は「従」である。この「主従関係」が逆転すると不備な統計に振り回されるだけでなく意思決定が遅れがちになり単なる机上論となる。なぜなら今日のダイナミックに変化する世界の経済現象や政治状況の多くは,もはや過去の統計の延長線上になく不連続に起きているからである。企業経営視点から見れば,やはり頼れるのは,世界のビジネスの最前線で鍛え抜かれた現場感覚である。
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