世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
円の総合的実力は1970年より低い!
(西南学院大学経済学部国際経済学科 教授)
2024.06.17
1990年1月から始まった株価暴落によるバブルの崩壊,その後「平成不況」と言われた時代を通り越して,現在は「失われた35年」を経過中である。
岸田政権は「物価と賃金の好循環」政策を謳っているが(植田和男「賃金と物価の好循環と今後の金融政策運」2024年5月8日),6月に公表された厚生労働省の「毎月勤労統計調査」における4月分の速報値によると,名目賃金にあたる基本給は26万4503円と2.3%増加し,1994年10月以来,およそ30年ぶりの高い伸び率となった。しかし,物価上昇率には追い付けず,実質賃金の伸び率は,25か月連続のマイナスとなり,過去最長を更新した。
岸田政権は,実質賃金の伸び率がプラスに転じたときをもって「デフレ脱却」宣言を行い,9月の総裁選,さらには総選挙に打って出る目論見もあったはずだが,円安による輸入インフレが秋口から本格化することを考えれば(Jカーブ効果によるタイムラグ),実質賃金の伸び率がプラスに転じるのは,もっと先のことになると予想される。
こうした「失われた35年」の間に,日本が失ったものを,以下の2つの事例で考えよう。第一は,日本の労働生産性が,先進(OECD加盟)38か国中31位にまで沈んだことである(日本生産性本部)。ある自動車メーカーが1年間に生産した自動車の台数(Y)を,そのメーカーの従業員数(L)で割れば,従業員一人当たりの生産台数,すなわちミクロの意味での労働生産性(Y/L)が求められる。このYを日本のGDP,Lを総労働者と定義すると,ミクロの意味での労働生産性は,マクロの意味での一人当たりGDP(Y/L)に等しい。したがって,一人当たりGDPも先進国中日本は31位に沈んでいる。そのため,生産性の上昇は必須の課題であるが,それについては別稿を用意したい(さしあたり拙稿「生産性について考える:人への投資と大学の無償化」『世界経済評論IMPACT』No.3297,2024.02.12)。
第二は,円の総合的な実力を示すREER実質実効為替レート(REER)が,2020年を100とした指数で表すと,2024年4月が69.99と史上最低を更新中であり,その値は1970年1月の75.02よりも低いことである。現在の円ドル名目為替レートが1ドル150円台で推移しているが,円のREERは「1ドル360円」で固定されていた時期より,円安であるということは,驚くべきことである。
しかもこの円安は,何も今年の4月~5月に始まったことではなく,2020年頃から傾向的に続いているのである。つまり現在の円安は,日米金利差などでは説明できるものではなく,いわゆるバラッサ=サミュエルソン効果(工業製品の生産性格差から為替レートの割高や割安が決まる効果,つまり工業製品の生産性の低い日本の円は過小評価される)によって説明されるべきものである。したがって,現在の円安は,たとえ日米金利差が解消されようとも,当分の間は継続するものと考えねばならない。
そこで「どうするか」である。それは,「長期的には生産性の向上」であるが,「短期的には円安でしのぐ」ことである。戦後日本が「1ドル360円」という円安水準で固定されていたことは,将棋で言えば「駒落ち」,囲碁で言えば「置き碁」,要するにハンデの役割を果たした。今なお世界最大の対外債権国である日本は,いわゆる「国際収支の発展段階」で言えば,「成熟債権国」の段階である。
かつての成熟債権国である英・米が辿ってきた歴史を振り返ると,英国では,第2次大戦後,周期的にポンド危機と言われた大幅な切り下げ繰り返してきた(1949年9月に最初のポンド切下げ,1967年11月に対ドル14.3%の切り下げ)。米国は,1971年8月の金ドル交換停止後1ドル/308に切り下げ(スミソニアン合意),1985年9月のプラザ合意後の1年間で,1ドル235円から1ドル150円台まで減価した。
今の円安はかつてのポンドやドルが辿ってきたのと同じ道を辿っていると考える方が自然だろう(拙稿「いびつな成熟債権国を露呈 円の実力をどう見るか」『日本経済新聞』2022年1月27日)。それこそ今から35年前に筆者が初めてロンドンを訪問した時,英国観光庁は,外国人観光客に向けて「イギリス安く売ります」というキャッチフレーズを出していて,確かに当時の強い円で安いポンド建て財サービスを購入して,大名旅行ができた。同じことが,今の日本に当てはまるだろう。「ニッポン安く売ります」。要するに,外国人によって日本を買い支えてもらうのである。それは,インバウンドだけに頼るだけではなく,円安ですでにJapan passingが始まっている外国人労働者の待遇改善,未だに低水準の対内直接投資の優遇措置なども含まれる。
もちろん円安には痛みが伴い,円安による所得分配は企業に有利,労働者に不利という指摘もある(榊茂樹「変動為替相場制移行後,最低の円安」『世界経済評論IMPACT』No.3413,2024.05.13)。上記のように,円安によってすでに外国人労働者は日本から撤退し始めている。これからは,技能実習生という制度を改正し,諸外国との優秀な外国人労働者の取り合い合戦に生き残る必要がある。また,将来の日本の労働生産性向上のカギとなる若者世代が,円安で外国留学を断念するケースも増えているという。これに対しては,官民の奨学金制度を充実させることが必須である。
いずれにしても,しばらくは続くであろう「円安を一時凌ぎ」として,その間に「本格的な労働生産性の向上」を図るというのが,今の日本の選択肢であると強く考える。
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