世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3417
世界経済評論IMPACT No.3417

中央銀行総裁の果すべき役割:サプライズ重視か市場との対話重視か

井川紀道

(元 世界銀行グループMIGA 長官)

2024.05.13

 2013年4月に日本銀行総裁に就任した黒田総裁は,市場に対してサプライズを与え,2%のインフレ目標を2年程度で早期に実現しようとし,円安と株高,デフレのない経済を実現したが,成長率を高め,賃金上昇による2%の持続的インフレを達成することは困難であった。2023年4月に植田総裁が就任してはや1年が経過したが,市場との対話を重視し,金融緩和姿勢を維持しつつ,2024年4月にはマイナス金利解除と長短金利操作(YCC)廃止,ETF等の購入廃止といった金融正常化を一気に進めた手腕に対して,市場での評価は概ね良好である。

 金融政策については,マクロ調整と金融システム安定化が二つの大きな柱であるが,マクロ政策については,裁量的に運用するよりも一定のフォーミュラに従って政策主段を安定的に維持すべきとした時期も長い。

 しかしながら,金融危機やインフレの亢進に直面した際には,中央銀行は果断な対応が求められた。1929年の世界恐慌は,当時の財政金融政策(均衡財政への拘りと通貨供給量減少放置)によって,一層深刻化したと指摘されるが,ガルブレイスは,「直前に逝去したストロングNY連銀総裁が健在であったならば通貨供給を増加させるなどして,あれほどの深刻な恐慌にはならなかったかもしれない」としている。2012年のユーロ危機においては,イタリアの国債利回り急騰(7%台)から,イタリア財政の破綻,更には西側諸国全体の財政破綻のシナリオも懸念されたが,イタリア人のドラギ欧州中央銀行(ECB)総裁が,それまでのドイツ流の後手,小出しの流れを変えて,2012年7月に国債の無制限の購入を含め,ユーロを守るためあらゆる手段を講ずることを誓約して,危機を収めた。キンドルバーガーは,金融危機と最後の貸手機能の関係について数々の歴史の教訓を示し,とりわけ「進んで責任負い指導力を発揮する者が一人以上いるかどうかが重要な別れ道になる」としている。

 深刻なインフレやデフレへの懸念に対して,米国FRB議長が大胆に対応した事例としては,まず,1979年に議長に就任したボルカーが10%を超える石油危機後のインフレに対して,政策目標をFF金利からマネーサプライ(銀行の預金準備)に変更し,FF金利が20%近くまで急上昇,失業率が10%を上回ったものの,インフレを急速に収束させたことが特筆される。2008年9月のリーマンショックに対して,バーナンキ議長は,「最後の貸し手機能」を総動員させて,金融システムの破綻危機に対処しようとした。バーナンキは「崩壊のマグニチュードとスピードは息を呑むほどであった」とし,11月の証券の大規模購入については,コンサス方式を一時的に放棄し,「FOMCの正式な承認を経ることなく」プログラムを発表したとある。

 では黒田総裁と植田総裁の就任時はどうであったであろうか。黒田総裁就任時には,15年にわたりデフレが継続し,人々の行動にデフレマインドが定着しており,それを変えるには,サプライズ重視で,ショックを与え期待が大きく変化することが求められていた。当時はデフレや円安が諸悪の根源とされ,白川総裁時代の日本銀行は,デフレは日銀の責任として批判に晒されていた。ぬるま湯が長いこと継続し,物価も賃金も上がらない社会通念が蔓延しており,黒田総裁は強い使命感と危機感をもって臨んだ。

 黒田総裁時代への批判があるとすれば,異次元の金融緩和において,マイナス金利の導入(2016年1月の政策委員会での薄氷の決定)やYCCの導入,ETFの購入も含まれ,そこまで徹底して政策手段を動員するのかという点と,長期に渡り金利の調整機能が損なわれたので,財政規律や経済の効率性(淘汰されるべき企業の退出と新陳代謝)が損なわれたという点である。ただし,中央銀行は危機において必要であれば,何でもやってきた(whatever it takes)という観点からみれば,時間をかけて検証をしないその是非は軽々には判断できないだろう。

 それに対して,植田総裁就任時には,エネルギー・原材料等の高騰によるインフレに加え,人手不足深刻化による賃金上昇とインフレの好循環が始まる機運が出ていたと言えるだろう。2023年の春闘賃上率3.6%に続き,2024年の春闘賃上率は5%に近い。あとは,平常モードで,賃金と物価の好循環を促す政策と,金融正常化が求められていくだろう。植田総裁は,今後の金融正常化をコンセンサス重視で時間をかけて慎重に行うと見られている。なお,植田氏は審議委員当時,その後批判に晒された2000年8月のゼロ金利解除では反対票を投じたことがよく知られ,今後も信念は貫かれるであろう。

 黒田総裁の末期から,植田総裁就任時にかけて,日本の金融正常化は,円高をもたらすとの見方が多かった。ところが最近の状況は,米国の金利引下観測が遠のき,逆に2024年4月の政策委員会直後の記者会見で植田総裁は,円安の物価への影響は大きくないとし,金融政策の現状維持を発表したこともあり,円が34年ぶりの円安水準(4月下旬に一時160円台)になっている。植田総裁も円安が基調的な物価上昇率に影響を与えるのであれば金融政策上の判断材料となると説明しているが,経済界も懸念するように,せっかくの賃上げもインフレ亢進で実質所得が目減りすれば,賃金と物価の好意循環にマイナスとなり,元の木阿弥である。

 一方,政府の債務残高がGDPの250%を超えている日本の財政状況のなかで,市場が財政健全化に疑念を持てば,ユーロ危機のなかでイタリア国債が7%台まで高騰したような事態に日本が直面することも排除しえない。

 船頭のリーダーシップは荒海において試されると言われるが,仮に円安がさらに亢進したり,財政危機が発生しそうな事態になった場合には,植田総裁には必要とあらば,コンセンサス重視や市場との対話よりも,果断な措置を採っていだだきたいと願う。

[主要文献]
  • 『21世紀の金融政策 大インフレからコロナ危機までの教訓』バーナンキ 2023年10月 日本経済新聞社(翻訳)
  • 『中央銀行 セントラルバンカーの経験した39年』白川方明 2018年10月 東洋経済
  • 『私の履歴書 黒田東彦』2023年11月 日本経済新聞
  • 『ゼロ金利との闘い 日銀の金融政策を総括する』植田和男 2005年12月 日本経済新聞社
  • 『大暴落1929』ガルブレイス 2008年9月 日経BPクラシック(翻訳)
  • 『熱狂 恐怖 崩壊 金融恐慌の歴史』キンドルバーガー 2004年6月 日本経済新聞社(翻訳)
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3417.html)

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