世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
超円安がもたらしたインフレと日本銀行の政策調整
(慶應義塾大学 教授)
2023.11.06
米国の足元のインフレ率は3.7%と,9%程度のピークからかなり低下している。日本のインフレ率も現在3%で,ピークの3.3%から低下している。両国のインフレ率は収斂してきているように見えるが,インフレ構造は大きく異なっている。米国では消費と労働市場の強さが,日本では超円安による食料価格高騰が主因となっている。
価格転嫁が早かった米国とFRBの課題
米国も日本も2021年から世界的なエネルギー・食料価格の高騰,並びに昨年2月のロシアによるウクライナ侵攻による一段のコモディティ価格高騰に直面した。
米国企業は原材料価格の高騰を比較的早く消費者の販売価格に転嫁したため,企業利益はかなり高い水準を維持してきた。消費が強いからこそ企業は価格転嫁を比較的迅速に進めることができたとも言える。昨年には原材料価格の転嫁が完了している。米国連邦制度準備理事会(FRB)が0~0.25%の状態で維持していた政策金利を昨年3月から急ピッチで5.25~5.5%まで引き上げてきたが,消費は堅調で失業率もまだ3%台という低い状況が続く。賃金上昇率も低下しているが4%台で,インフレ率を上回っているので,実質的な賃金上昇は消費を下支えしている。
しかしサービス産業は一般的に労働集約的で労働生産性が低い。このため,企業は高い賃金上昇率を利益確保のために販売価格に転嫁しようとするので,インフレが高止まりしやすくなっている。エネルギーを除いたサービスのインフレ率が5.7%とまだかなり高い水準にあるのはこうした背景がある。
だからこそ,2%インフレ目標を実現するために,FRBは年内あと1回利上げをするか,現状維持を長く続けていく見込みだ。市場参加者の多くは現状維持が続くと見込んでいる。FRBは来年には利下げを始める見通しを示しているが,年末までに5~5.25%へ下げる程度との見立てで,市場参加者の4.5~4.75%の見通しとのギャップが大きい。足元では原油価格の上昇もみられ,インフレ見通しの不確実性は高い。FRBはエネルギー・食料を除くインフレ率が着実に2%に向けて低下するかを重視している。
消費者への価格転嫁が遅い日本,需要の弱さが原因
日本ではインフレ率の8割は食料価格の高騰が原因で,コストプッシュ型のインフレが続いている。電気・都市ガス料金やガソリンなどは補助金を支給して価格を抑えているため,補助金が撤廃されれば4%近いインフレになっていたと見られる。食料価格の高騰は現在では円安による輸入物価の高騰によるものだ。
日本の消費者が販売価格高騰に敏感なため,企業は消費者の大きな負担にならないようにゆっくりと値上げをしてきた。大企業は価格転嫁が進んでいるが,中小企業の多くは転嫁が十分できていないため,中小企業の利益水準はあまりかんばしくない。
実質消費はここ2~3年停滞しており,コロナ危機前の2019年1-3月期の水準をまだ回復していない。労働市場では労働人口減少から人手不足が常態化しているが,強い景気拡大にもとづく逼迫感はない。今年の春闘では大企業と労働組合が4%程度のベアで妥結したが中小企業を含む4~8月の現金給与総額上昇率は1.6%(内,所定内給与上昇率は1.3%)にとどまる。インフレ率を大きく下回っているため,多くの労働者が賃金上昇を実感できないままである。
日本銀行が直面するチャレンジ
日本銀行は2016年から長短金利操作(当座預金の一部にマイナス0.1%を適用,10年金利に0%の誘導目標を設定)を継続している。10年金利には変動幅を設定しており,昨年末に変動幅を上下0.25%から0.5%へ拡大した。既に9月と10月に財務省・日本銀行による計9兆円程度の円買い・ドル売り為替介入があり,10月頃から米国の長期金利上昇が止まったこともあり,円は幾分円高方向へ戻すことができた。
しかし,その後,5月頃から日米金利差が再び意識されて円安ドル高が大きく進んでいる。日本銀行の金融緩和維持の姿勢と米国の長期金利の上昇が背景にある。
そうした中,今年7月に日本銀行は植田和男新総裁の下で初めての政策調整を行った。上限を1%へ拡大し,この上限を維持するために指値オペを実施する方針を示した一方で,上下0.5%をメドとして残す政策調整を行った。大きな利上げはないことを示すためにメドを導入したが,市場では1%を容認しているのか分かりにくいとの意見が多く聞かれた。
当時,植田総裁は1%に近づくことは見込まれないと説明したが,その後10年金利は次第に上昇圧力を高め,円安ドル高は一段と進んでいる。円の対ドル為替レートは150円前後で推移するようになっており,食料価格の高騰から国民の生活負担感が高まっており,足元の内閣支持率低下の最大の理由となっている。
こうした中,10月末の金融政策決定会合では何らかの政策調整が行われると筆者はみていた。理由は,超円安の継続,長期金利が1%に近づいていたこと,および展望レポートで2023~2024年度物価見通しが大幅に上方修正され2022年度から3年連続2%超のインフレになることから,金融緩和を継続するとの説明が難しくなっているからだ。結果は,「1%の上限,5%のメド」から,「上限のメドを1%」へ変更し,指値オペで無制限の国債買い入れで上限を防衛する政策を撤廃した。大量の国債買い入れを以前ほど実施しない姿勢を示したことになる。
これにより1%を超えて長期金利が変動するのを容認することになり,市場の需給によっては長期金利が低下することもあるが,以前よりも上昇余地が拡大した。
市場では一段の金融政策正常化を見込む
植田総裁は今年9月のインタビューで年内のマイナス金利撤廃の可能性がゼロではないとあえて発言し,金融政策を正常化するタイミングを見極めようとしている印象を与えた。10月会合の決定を受けて,市場では来年には10年利回りの0%誘導目標とマイナス金利の撤廃(すわなち長短金利操作の撤廃)への期待をさらに強めていきそうだ。
新総裁の下での日本銀行は現在のコストプッシュ的インフレはいずれ低下していくし,賃金と物価の好循環の下での安定的な2%インフレを実現する見通しが立つまで金融緩和を継続すると説明してきた。しかし,新型コロナ感染症危機の後遺症,地政学リスクの高まり(米中対立,ウクライナ戦争,アジア太平洋地域の近況の高まり,中東問題など)とデリスキングによる生産拠点の分散化,気候変動,高齢化による人手不足と賃金上昇といった物価を押し上げる要因が増えている。こうした新しい経済物価環境の下では,金融政策はできるだけ柔軟に行うのが望ましいと思われる。
将来的に日本銀行が長短金利操作を撤廃する場合,物価安定目標を2%からレンジ(たとえば1~3%)に変更するなどの柔軟化を検討してもよいのではないか。世界にはレンジを採用する中央銀行もある。これにより,物価安定目標とも矛盾することなく金融政策をより柔軟に運営することができる。
景気後退に陥ったり,経済危機が発生する局面で金融緩和を行い,経済を下支えする余地を作っておくことでメリハリのある金融政策運営が可能になる。
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