世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
『大君の通貨』と現在の金融為替政策
(杏林大学総合政策学部 元教授・非常勤講師)
2023.08.07
久しぶりに若い頃読んだ佐藤雅美著『大君の通貨』(文春文庫版)を読み返した。初出は1984年の講談社版である。その翌年のプラザ合意により,急速な円高が進んだ。日本は円高対策のために積極的財政政策と大規模な金融緩和を実施し,その後のいわゆるバブル経済を現出させた。
さて初版本著書の副題には「幕末円ドル戦争」となっている。初版本は難解であったが,作者によって改編がなされ,その後の文章は解りやすくなっている。ストーリーをネタバレすると,日本の金貨(小判)流出や幕府財政の悪化が,その原因は米英の日本の金融政策の理解度不足にあったとでも言えるのであろうか。極言すれば明治維新は為替政策失敗の結末であったと考えられる。
著者の分析によれば幕府は天保一分銀を発行し,地金通貨を安く発行することにより財政収入を増大させた。一分銀は現代風にいえば管理通貨であり,通貨の金属的価値と通貨流通価値が一致しない。例えば現代の一万円札は紙としてみればせいぜい数十円程度である。日本銀行の印を印刷することにより,その流通価値が保証されている。幕府とアメリカ総領事ハリスやイギリス外交代表オールコックとの交渉で,銀含有量の同種同量交換を基準としてアメリカ1ドル=3一分銀との欧米主張に対し,幕府は「一分銀に幕府の刻印を打つことによって3倍の価値が保証されている」と主張を展開する。欧米によりその主張は「欺瞞」と一蹴され,1ドル=3一分銀が協定として決定される。
困難を極めた交渉の幕府側敗因は,理論的説明力の無さであった。財政官僚では説明能力のある者もいたが,トップの外国奉行や勘定奉行が為替や金融の知識が乏しく,中には「我々は大名ゆえ,金銭のことは解らん」とまで言い出す始末。こうして金貨流出が始まり,その問題に対処するための欧米提案が小判(金貨)価格の3.375倍の引き上げだった。一方幕府側の一部には,一分銀価格の引き下げ(1小判=12一分銀)の主張もあった。一見表裏一体の議論のようだが,その結果は大きく異なる。日本は当時の通貨制度でいえば金本位制であったから,小判価格の3倍強の引き上げは3倍の物価高インフレを引き起こした。高インフレは価格引き上げができる商人たちには比較的軽微であったが,固定賃金の職人や特に固定給の武士階級に大打撃を与え,開国反対・外国人排斥の攘夷運動を巻き起こし,反幕尊皇と結びついて討幕運動が過激化する。財政難の幕府は討幕鎮圧の軍事費も少なく,姑息な公武合体などを経て,大政奉還,明治維新に至る。こうして金融為替政策の失敗が政治体制の変革をもたらした。
さて現代の日本と欧米の金融政策,ひいては為替政策の動向はいかがか。アメリカやEUの高金利政策と日本の金融緩和政策維持は対照的だ。物価上昇率2%の定着を誹謗しながら,昨今の日本の物価上昇率は3%以上まで昇っている。2023年6月の全国消費者物価指数は3.3%,7月の東京都区部消費者物価指数は3.0%,アメリカの6月消費者物価指数は3.0%だから日米逆転だ。
大企業を中心とする名目賃金上昇はある程度進んでいるが,実質賃金は依然低下のままである。毎月勤労統計による5月の実質賃金は-1.2%。まさに大多数の給与生活者を相対的貧困化に向かわせている。
金融当局の対応はどうか。FRBは7月に0.25%の金利引き上げをおこった一方,日銀はイールドカーブコントロールを0.5%から1.0%に引き上げた。一見金融緩和解除の布石とも思われるが,2024年度の生鮮食品を除く物価上昇率予想を2.0%から1.9%に引き下げている。先行きは原燃料などの国際価格安定に伴い,2%の安定的な物価上昇はなお時間がかかると見て,金融緩和姿勢を維持する可能性が高い。金融緩和による円安傾向は輸入物価引き上げ,資源輸入の多い日本にとって商品価格引き上げにつながる。事実,食品部門の値上げが続いている。
政府の政策はいかがか。例えば「預貯金から投資へ」のかけ声も,金融教育の背景が弱い。若年層にはカリキュラムに金融教育が導入されているが,問題は中高年層だ。1990年の大口定期金利が年8%だった時代は極端としても,ゼロ金利やマイナス金利政策が導入されるまでは,預貯金はリスクをとらない有利な運用方法だった。預貯金の習慣形成ができあがっているから,この年代の思考変革には金融教育が欠かせない。問題はその実施方法であろう。金融に関する一般的な誤解を解消させていくことが重要である。
誤解の事例として例えば「リスクとリターン」のリスクは,損失の可能性では無く,利益可能性と損失可能性の変動幅である。いわば100万円の株式投資でリスク10%ならば,110万円にもなる一方,90万円にもなる可能性がある。利益可能性と損失可能性は状況にもよるが,未来のことなので誰も解らない。100万円の定期預貯金の金利が0.01%ならば1年後の利子は100円でリターンは確定している。投資の場合リスクが大きいから振れ幅が大きく,リターンは不確実である。「投資は自己責任」のかけ声だけで金融教育が脆弱ならば,「預貯金から投資へ」の誘導は不十分であろう。
昨今はマイナンバー制度導入の問題が政府批判の矛先となっているが,名目賃金上昇に隠れた実質賃金低下は給与所得者などの相対的貧困化を進行させる。マルクス経済学は信奉しないが,政治が上部構造,経済が下部構造であることはおそらく正しいだろう。金融や為替に疎い政府がこの先どうなるか,幕末の「大君の通貨」の悲劇を避けんことを願う。
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