世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2841
世界経済評論IMPACT No.2841

ウクライナ戦争,ロシアの視点を推察すれば

鷲尾友春

(関西学院大学 フェロー)

2023.02.06

 「2023年初頭の世界と日本」をどう見るか,と問われた時,筆者は1994年に公開されたハリウッド映画のClear and Present Dangerというタイトルを思い出す。米国大統領の再選選挙を間近に控え,某州知事の現職大統領追い落としの策謀に,ハリソン・フォード演じるCIA諜報局幹部のジャック・ライアンが立ち向かう,トム・クランシー作のミステリー作品の映画化。日本で公開された時の映画のタイトルは「今そこにある危機」。そして,この日本語タイトル,現在の世界危機を現わすのにピッタリだ,と思うからだ。

 現下の世界を眺めると,ユーラシア大陸の西と東で,大型火山の活動が活発化している。一つはプーチンが着手したウクライナ戦争。二つは,トランプが着火し,バイデンが引き継いだ米中経済戦争とその延長上に懸念される台湾有事である。両活火山共に,地下のマグマは煮えたぎり,先に噴火したウクライナ火山では,河口から流れ出した大量の溶岩が地表の表情を大きく変えてしまいつつある。双方の地下マグマは共に,錯綜した歴史と社会における価値観(含む宗教)が混ぜ合わさって出来ており,一旦爆発してしまえば,対立する陣営のどちらか一方が圧勝でもしない限り,短期での根源的解決策など見当たりそうもない。

 問題の根深さを理解するため,ここでは,日本にとって相対的に知識量の少ない,ウクライナ火山のマグマについて,若干の基礎知識を仕入れておくのが便利だろう。先ずは社会的価値観絡みでの宗教史,具体的にはキリスト教の流れから観ていこう。

 周知のように,キリスト教は,ローマ帝国下で,世に受け入れられるようになったのだが,そのローマ帝国が西と東とに分裂すると,西ではローマのカソリックが,東ではギリシャ正教が,以後の流れの源流になる。そして西と東,それぞれの帝国が崩壊の後,二つの流れは同じ源から出たとはいうものの,発展の方向や内容が大きく違ってくる。

 例えば,ローマのカソリックは,西ローマ帝国がなくなった後,アルプスを越えて西欧や中東欧に布教活動を広げて行く。しかもその際,自らを,精神世界を律する支配者で,世俗の権力をその下に従属させる存在だと位置づけた。ローマ教皇が神聖ローマ皇帝を破門し,当の皇帝がローマ教皇に許しを請う,そんな姿が現出したカノッサの屈辱などは,そうした指向が産み出した典型的現象だった。

 これに対し,ギリシャ正教は,西ローマよりは長命だった東ローマの国教として発展した。故に,東ローマ皇帝を神の代理と位置づけ,その権威の下で布教するという形を取った。だから,布教の地理的方向も,東ローマ帝国の影響力が強かった,黒海などのルートを通って北上し,最初はブルガリアに,次いで現ウクライナの首都キエフに布教された(キエフ大公国がギリシャ正教を国教化したのが988年)。

 ギリシャ正教にとって,布教の拠点となる総主教座は元々5カ所だと認識されていた(エルサレム,ローマ,コンスタンチノープル,アレキサンドリア,アンティオキア)。ところが1000年代に入ると,アナトリア半島がセルジュク・トルコに押さえられ,エルサレムも危ないと危機を感じた東ローマ皇帝が,ローマ教皇ウルバヌス2世に救助を依頼する。そうした経緯を経て,西欧諸侯による,ご存じ十字軍の派遣となり,西欧諸侯,その背後にいるカソリックが,エルサレムや東欧・ロシアに十字軍の名の下に入り込んでくる構図が以後二百年続くことになる。

 一方,こうした状況に,錯綜する中央アジアの民族史が絡んでくる。中心となったのはモンゴルだった。周知のように,モンゴル勃興の祖テムジンは,モンゴルという小部族の,亦その中の,小さな部族の有力者の子として生まれた。だが,小さい頃,父親はライバルに毒殺され,己は不遇の内に育った。そんな彼に幸運が訪れる。1203年の秋,モンゴル高原で覇を誇っていたカレイト族の長を,奇襲で制し・・・。もっとも,その後もテムジンは苦闘を続け,1204年春,齢四十を過ぎて漸くモンゴル高原全体の覇者となった。

 そして,更にその2年後,1206年春,テムジンはオノン河のほとりに大会合を招集,その場でチンギス・カンの称号を名乗ることになる。チンギス・カンは,即座に旗下の全遊牧民を計95の千人隊(全員が騎馬であることを勘案すれば,当時の中央アジアでは比類ない機動部隊を持ったことになる。この千人隊の数は,最盛期には129にまで増大している)に編成し直し,3人の弟たちには計12の千人隊を配分,彼らにはモンゴル高原の東方に向かって,一方,3人の実子たちにも同じく計12の千人隊を与え,高原の西方に向かって,それぞれ領土を拡大することを命じる。

 チンギス・カンは1227年に死去した。その後,紆余曲折はあったが,1235年夏,後継カンとなったオゴタイの指令の下,チンギスの長子ジュチの次子バトウを総司令官とする,モンゴルのロシア並びにブルガリア方面への大侵攻作戦が始まる。そしてこの西進部隊は,1240年にはキエフ大公国を征服,そして,このバトウが創設したキプチャク・カン国がロシアの大半を支配することになるわけだ。

 ロシアにとって“タタールの軛”と言われるこの時期,広大なモンゴルの諸カン領を介して,南からはトルコ系民族の流入とそれに伴うイスラム教の侵入が続く。結果,中央アジア諸国のイスラム化が一層進展し,現在のタジクスタンやウズベクスタン,或はキルギスタンなどの,旧ロシア連邦を構成する,イスラム系の国々の礎石が固まって行く(そして,今,これらの国々を,どう引留め続けるかが,プーチン大統領の大きな課題となっている)。

 しかし,タタールの軛と称される事態も,250年前後の間に徐々に緩み始め,1480年にはロシアの中でも最も辺境にあった,モスクワ大公国がキプチャク・カン国への朝貢を正式に止めるに至る。モンゴル支配の崩壊の始まりだった。

 この間,1472年には,モスクワ大公国のイワン3世が,既に滅亡していた(1453年)東ローマ帝国の皇女にあたる女性と結婚,併せて,東ローマの国章だった双頭の鷲をモスクワ大公国の国章に採用,亦,ギリシャ正教のキエフに置かれていた拠点も,モンゴルの支配色の比較的薄かったモスクワに移されたのだった。更に亦,イワン3世の孫,イワン4世の頃から,ロシア皇帝は己のことをツアリーと称するようになる。ツアリーとは,カエサルのロシア語読で,そこには,ロシア皇帝は今や東ローマ皇帝の後身で,国家権力でギリシャ正教を保護できる唯一の国の王だ,とのメッセージが含まれていた。それは亦,文明・政治権力・社会の骨格となる宗教など,その全てがコンスタンチノープルからモスクワに移った,との宣言でもあった。

 そうなると,ギリシャ正教が脅威に感じていた諸々も,ロシアは踏襲することになる。そんな脅威の筆頭は,先ずはローマ・カソリックと,その影響下にある西欧・中欧諸侯からの圧力で,その象徴的事例が十字軍だった。十字軍こそが,エルサレムを陥落させ,時には東ローマ帝国を一時的にせよ滅ぼし,亦,時にはバルト三国やロシアの影響力の強かった地域にも侵入してきたではないか・・・。

 そんなロシアにとって,脅威は今も,昔と同じように存在する。直近の2019年には,コンスタンチノープルの正教主教庁が,ウクライナ独立を名目に,それまでモスクワに一元化されていたロシアでの総主教座をわざわざ分割,コンスタンチノープロとロシアは断交状態なってしまった。こうした背景には,トルコと米国が暗躍している・・・。

 ロシアの認識は上記の如くであり,今回のロシアのウクライナ侵攻を,ロシア正教のモスクワ総主教キリル1世が熱烈に支持する理由も,結局はこんな処にあるのだと推察される。付け加えておけば,プーチン大統領は大ロシア主義の信奉者であり,ギリシャ正教の忠実な信徒。そして,ロシア国民の7割弱がギリシャ正教の信者。そして,このような西側の力への脅威認識は,そのまますっぽりとロシアの国家安全保障観の中に移入されている。曰く「ロシアは,NATO諸国から周囲を攻囲されており・・・」云々。こういう脈絡で観れば,十字軍が侵攻して,ロシアの影響力を脱したポーランドやバルト3国などは皆,今やNATOの一員ではないか・・・。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2841.html)

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