世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
「新しい資本主義」と資本主義の限界論への疑問
(エコノミスト )
2022.02.14
ウクライナ情勢が緊迫している。クリミア戦争(1854−56年)は「フランス+イギリス+オスマン帝国」vs「ロシア」の戦いであったが,これを彷彿させる。この戦争は激烈な近代戦の端緒ともなったもので,現在進行中のコロナショックとの関連も想起させる。近代戦の特徴は激しい戦闘もさることながら,後方支援の断絶等による疫病の蔓延である。これを体系的に指摘したのが,1908年に免疫学の研究でノーベル賞を受賞したメチニコフ(1845−1916年)である。彼の代表著書は『近代医学の建設者』(原書1915年)で,ここでクリミア戦争の死亡者数は「疫病」によるものが「戦死者及び戦傷病死者」の2倍に及んでいることを指摘している。そして,「第一次大戦という愚かな前代未聞の激しい戦闘に腐心するのではなく,人類は様々な病気や伝染病との戦いに勝利すべきだ」と訴えている。同書はパスツール研究所を舞台に学界での精力的な防疫論争を手際よく紹介している。
こうした論争とは裏腹に,我が経済学界の政策論争は随分と「大人」になってしまっている。最近の『日経新聞』コラムでの指摘を待つまでもなく,政府提案の「新しい資本主義」像が明確になっていないことである。政府の掲げる政策はスローガンに過ぎないから,「成長と分配の好循環」といった言葉のみに制約されている。問題はこれを巡る専門家による理論的論争が欠如している点である。だが,ここ10年以上の学界状況は如何なものであろうか? 落語の世界ですら「新作落語」と「古典落語」の2分野が厳として存在している。なのに,我が経済学界はこの新作落語の分野しか存在しなくなってしまっているのであるから,「糸の切れた凧」同然の状態になってしまった。最近流行りの「資本主義の限界」を指弾するだけの自称左翼の論客も現れているが,彼らは自らの姿が見えていないのではないか。資本主義の「弊害」をもって,明日から資本主義を廃棄することなど出来るはずがない。あまりに鮮明な論理である。マルクスへの過剰な依存と拡大解釈をもって資本主義システムの欠陥を論じたところで,具体的政策論争にまでは発展しない。筆者はそれを「反動左翼」と呼んでいるが,左翼イデオロギーが常に革新的であったためしはない。E. H. カーもそれを指摘しているし,歴史現実としてワイマール憲法の中から専制独裁体制は構築されている。
我が国に長期経済ヴィジョンがないのは,「20年前に消滅した経済計画の立案がなされなくなった点にある」と主張する人もいるが,そうは考えられない。むしろ,知識層を含めて国民各層がそうしたビッグ・ヴィジョンを評価する精神的風土が存在していないからだろう。端的にそれを示す例として,オリンピックの金メダル候補のインタビューに表現されている。アスリートは言葉を駆使する人たちではないから,個々の発言を咎める趣味は全くないが,「メダルを逃したのは申し訳ない」等々の応援する人々への気遣いが前面に押し出されている。百分の一秒を争う世界にあって,一瞬の躊躇や迷いは決定的な筈だが,このような精神が蔓延していては勝てるものも勝てないのではないか。我が国が世界をリードする気概と指導理念を議論する学問的追い風なしに,原理的考察も戦略的産業育成も夢のまた夢であろう。これまで幾度となく「骨太の政策論議」というスローガンが語られてきたが,所詮は「五本指の中の親指」位の太さでしかなかったのではないか。
「経済計画」の再考を唱える人々もいるが,中国では計画経済の指標は「計画」ではなく「目標」位の概念に格下げしている。これはより柔軟な経済システムへの対応策を模索しているのであって,その中で国家の意志を貫徹するという柔構造政策体系への転換である。ここにロシア政治経済体制を上回る中国的国家のバイタリティを見る思いがする。もしウクライナの分裂やEUへの移行が実現したならば,第一大戦後のドイツにおける「ルール工業地帯の割譲」や第二次大戦時のスターリングラード攻防に匹敵するような事態になりかねない,というロシア的危機感がプーチンにはある。現下の国際情勢は留まることのない世界人口爆発と国際開発の狭間で揺れ動いている。我が国の大学に於いて「軍事研究反対」なる非現実的夢想を掲げている様では,国家の在り方も政策体系の議論も俎上に載せられない。革新左翼と反動左翼,革新右翼と反動右翼の四つ巴の議論もモノともしない議論が待たれる。
大著ではないが,フローベルをも嘆賞させたといわれるメチニコフの名著や,未完(未整理)の大著『資本論』,雑文集の『わが闘争』の様な才覚が歴史を動かしてきた。奇麗過ぎ,お上品な論文や研究がその範疇に入らないことは誰しも認めるが,そこに歴史的危機が潜んでいるのかもしれない。
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