世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2271
世界経済評論IMPACT No.2271

「選択の自由」のために貧弱な哲学を克服する

末永 茂

(エコノミスト  )

2021.08.30

 1930年代から1970年代初頭までは,世界的にいわゆる「計画」への信頼が高かった。理由は世界大恐慌との対比に於いて,ソ連の第1次五か年計画の輝かしい実績にある。そして戦後のソ連経済に一定程度の成果はあったが,その実態はベールに覆われていたためカリスマ性が醸し出され,それが計画性神話になった。戦後不況を回避するために,各国は増産に次ぐ増産をプランニングした。しかし,それが一巡すると欧米先進国は構造転換を迫られるようになる。「豊かな社会」は達成されたのである。その後,1960年代には英国病が顕在化し国有企業や社会保障制度の改革が重要課題になり,さらに70年代の石油ショックと財政悪化による行財政改革,ケインズ政策への反省が政治の世界でも,経済学界でも主たるテーマに躍り出る。注目された政策理論は反ケインズ政策であり,ハイエクの流れをくむM.フリードマンである。彼は1965年頃からマネタリズムの総帥として脚光を浴びるようになり,50年代から書き連ねてきた論文が再評価されることになる。『選択の自由』は1980年(原著は79年)にベストセラーになった。

 フリードマンの経済学は冷戦の推移と深く関わっている。戦後アメリカのスタンスを決定的にした政治事件は「赤狩り」,1948-49年のベルリン封鎖から朝鮮戦争に至る1948-54年頃の過程にある。冷戦体制は1991年ソ連崩壊まで続くのだが,1958-61年ベルリン危機=ベルリンの壁建設時も東西対立は激化する。ドミノ理論による反共政策は社会政策そのものにも影響を与え,アメリカ国内では過剰な警戒心となって世論が形成された。この歴史過程の中で執筆されたのが,『資本主義の自由』である。1959年に講義していた原稿を基に1962年に出版し,我が国で翻訳されたのは1975年である。

 この書でフリードマンは,企業経営は利潤追求のみに特化すべきで「ゲームのルールの範囲内にとどまるかぎりにおいて,企業の利潤を増大させることを目指して資源を使用し,事業活動に従事することである」(熊谷・西山・白井訳,151頁)としている。企業活動の自由を十二分に発揮するのが資本主義経済であり,その理論的源流は取りも直さず,アダム・スミスにあるという。加えて彼は「ゲームのルールの範囲内」において企業活動は最大限活動するのであって,社会的責任を果たすべきではないとさえ主張している。企業活動の範疇をことさらに制限し,利潤追求以外の要素を削除してしまう。社会活動は政府や労働組合関連部門においてなされるべきであると強調している。ルールさえ守っていれば,それで十分だというのであるから「詐欺や違法行為」がなければ許されることになる。だが,現実社会にはグレーゾーンが至る所に存在しているから,結果として,訴訟も頻発しアメリカ特有の社会になってしまう。法的規制に関わる社会的ルールは,それを構成している人々の社会観念に由来していることをフリードマンは忘れている。しかも,利潤なるものの社会的機能の大きさも考慮されていないから,始末に負えない。

 我が国のように労働問題の法的規制が充分に機能せず,不払い労働やサービス残業等々が日常化している企業風土では,その前提が欧米文化とは大きく異なっている。最新の厚労省の調査では「違法な時間外労働」を強いている企業が実に37%に及んでいる,と報告している。また,現状の労働組合は1950年代に見られたような総資本との敵対的な関係ではなくなっており,むしろ労働貴族化しているのが実態である。社会的良識を根源的に問いかけたアダム・スミスの哲学的基礎はここでは無視されてしまう。そして,部分的機能のみが議論された結果として「株主資本主義」という誠に純粋な資本主義が跋扈し,相互依存的社会構成体としての「ステークホルダー・キャピタリズム」は遥か彼方に追いやられてしまう。フリードマンの資本主義論は社会主義体制との明らかな対峙関係から引き出された,一つの純粋理論である。それを後継者達は無条件に要素分解し単純化している。ここに様々な政策的齟齬を齎す原因がある。対峙するものがなくなれば暴走するしかない。対抗馬が消滅すれば成立し得ない理論では,たった一つの地球の存在=グローバル経済と矛盾する。

 ハイエクは社会主義計画経済=中央指令経済の非合理性や一部特権的階層を生み出す点を批判したが,同列の倫理構造から「個人の合理的判断」なるものも行き過ぎればエゴイズムにしかならない。新自由主義の哲学的考察のシンプル化は単純命題の創造によって,益々貧困を助長しているように思える。理論としての新自由主義の再興の道は,モデル分析の大量生産より根源的な文献考証を進める点にあるのではないか。自由のない社会は牢獄でしかないが,その自由を基礎づける理論がなければ,社会はエセ自由主義そのものに押し潰されてしまう。ハイエクとフリードマンはそれなりの時代を担った政治的社会観があったのだろうが,それが後継者によってトリセツやマニュアル化された理論に発展? すれば,学理学説から根本観念が蒸発してしまう。

 如何なる天才といえども時代の申し子であり,時代を超越することは出来ない。新自由主義者だ。ケインジアンだ。社会主義者だ。と自己の思想を高らかに宣言しても,時代がいうことを聞かない。皆が日和見主義者か風見鶏にしかならないのが現実であり,主義に拘っていれば,生きて行くことも出来ないというのが,人間の本性であるかも知れない。人々の能力は不定であり確定的ではないため,需要と供給の調整の場としての市場原理は不可欠である。そして,時の流れを創るのはどんな理論なのか。改めて新自由主義の理論的基礎を強化しなければならない。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2271.html)

関連記事

末永 茂

最新のコラム