世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.2225
世界経済評論IMPACT No.2225

市場資本主義を超えていくもの

原 勲

(北星学園大学 名誉教授)

2021.07.12

 経済学は資本主義以前の社会には不要な科学であった。したがって経済学者の存在も勿論不要であった。たしかに資本主義社会以前の世界にも,商品を取り引きする商人は存在したし,金銭のやり取りを行う金貸しや金融業者は存在した。しかし彼らは社会の傍流というよりアウトサイダーであったといえるかもしれない。社会の潮流は,人類がそれ以前の社会まで習得した伝統や制度に従うことが基本的には尊重された。封建領主は,引き継がれた身分の封建領主のままであり,彼らに従う民百姓は自分たちの身分や置かれた立場が根本的に変わってしまうことは,よほどのことがない限りなかった。中世では,商人や金融業は,最も卑しい身分の者が担うものとされ,それは旧約聖書などの教義や社会的因習によって何代にも渡って強化され,受け入れられてきた。この数百年以上に及ぶ長い中世社会の価値観の正当性を一挙に変貌させたのが,わずか三百年程前に登場した市場資本主義である。これに最も大きな影響力を与えたのが新しい教義ともいうべき経済学という科学の誕生であった。その創始者がアダム・スミスである。スミスは産業革命期でもあったこの時代の社会的現象を,それが市場資本主義という新たな社会の特性であることを国民に最も良く説明した最初の人であった。当時の人々はこの変革期がどのようなものであるかを全く理解出来ていなかったからである。

 さて,アダム・スミスは,有名な「国富論」を著す前に,「道徳感情論」を処女作として発表している。1759年に発行されたこの書のタイトルの主旨は,人間は利己的で自分勝手な生き物のはずなのに「何故社会は秩序を保ち道徳的に振る舞えるか」を研究したものであった(注1)。そして結論として人間は,他者と共感し,哀れみや同情を抱ける能力を本来的に持った存在であり,その感情の上に道徳的な行動をとることが可能となり,適正な社会秩序が維持できると主張した。これは経済学者以前の道徳論者スミスの素顔が良く見える。そしてこの書は大きな反響を与えたのである。1776年に発行された「国富論」は全く「道徳感情論」を主張した時の基本的視点の上にそのまま立っている。国富論は資本主義の基本的要素である「富」の研究書であり,あたかも道徳感情論の世界とはまるっきり違うのではないかと思われることがあるが実はそうではない。国富論のいう富とは諸国民の富であり,国民一人一人が富を得るにはどのような方法によって可能になるのかを研究した書である。例えばこの膨大なボリュームの書の最初の部分でピンマニュファクチャー工場の話が出てくる。ピン生産を1人で一個の完成品を作るのもやっとのことなのに,ピンを切る人,先をとがらせる人,頭を付ける人などに専業化してグループ生産することによって一日1人当たり数百本の生産が可能になるという有名な例がでてくる。これは分業とネットワークによるさしずめ労働生産性向上を示したものだが,スミスが意図したのは必ずしも生産性やコストだけを示唆したものではない。当時の貧しい労働者の一人一人に如何に仕事にありつけ,暮らしを豊かにさせていくかが資本主義初期の生産方法であると説いたのである。もう一つこれも有名な例として語られているが市場と販売の話として「我々が自分たちの食事をとるのは,肉屋や酒屋やパン屋の博愛心ではなく,彼らの自愛心に対してであり,彼らの利益である」と書いている。確かに自己の利益のために行動しているのだが,そのために競争するのは自滅を招く。何故ならそれぞれが己の利益のみを考えて行動すれば,うまそうな話には人は必ず真似をするからすべての人の利益は失われ,社会に混乱を巻き起こすだけになると説いているのである。それが資本主義の精神であり,新しい社会の行動だと主張したのである。それにしても社会はなぜうまく行くのか。それは「神の見えざる手」によってであるとスミスは述べた。このスミスの資本主義は当時の小さな集団の中から自ら発見したものである。だから今日のグローバル時代の複雑な世界規模の資本主義とは異なるのは当然である。そして300年の資本主義の過程で良きにつけ悪しきにつけ多くの問題を残してきた。経済学は細分化し,科学化しだが,経済学とは基本的に社会的関係を総合的全体的に捉える富の研究である立場は厳然たるもので変わらない。インド出身のノーベル賞経済学者アマルティア・センはスミスは経済学者である前に聖職者であったといっているが,それはともかく市場資本主義(市場社会主義を含めて)は300年の歴史を経て今や終焉を迎えようとしている。最早この思想と行動では地球が持たなくなったからである。筆者はグローバルという抽象の世界ではなく,人間的なふれあいのあるコミュニティを出発点とし,本当に人類の富の未来を形成するに足る壮大な経済理論の生誕が今こそ待たれると考える。

[注]
  • (1)ウイキペディア参照
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article2225.html)

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