世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1930
世界経済評論IMPACT No.1930

筆を握るということ:国際文書の作り方

安部憲明

(外務省経済局国際貿易課 課長)

2020.11.02

 夫婦間の会話に「生返事」はつきものかと思うが,政府間の交渉となるとそうはいかない。

 国際約束は,通常,間違いがないよう文字にして紙に落とされる。これらは,「協定」や「条約」と呼ばれる。国際組織が作る文書も「決議」や「勧告」など呼び方はさまざまだが,加盟国間の約束を「生返事」に終わらせず,手際よく証文に固めるための能率化のたゆまぬ努力の結果として,その組織ごとに書式(フォーマット)が定まっている。

 定式化された文書の表紙には,例えば,①理事会や予算委員会など意思決定を行った機関,②決議や宣言,指針や報告といった文書の種類,③案件のテーマ,④通し番号などが,決まった場所に記されている。表紙はたった一枚だが,知るべき情報が満載だ。よって「表紙の考現学」は,外交官一年生の必修科目である。

 そして,表紙をめくった最初の頁の1行目には,たいてい,「理事会は,」とか「A国が共同提案し,それに賛同するX国,Y国,Z国は,」といった主語が来る。次に重要なのは,主語を受ける述語である。「決定した」のか単に「認識した」のかで,約束の拘束力に雲泥の差が出るためだ。

 主語と述語に挟まれた部分には,関連する条約や決議等の先行する国際文書が数段落にわたって列挙されることが多い。「マラケシュ閣僚宣言の趣旨に照らし」,「ジュネーブ条約にかんがみ」,「決議35号及び同67号に関し」といった具合に。この紙にハンコをつく国には,昔の約束を「忘れた」とか「聞いていない」とは言わせませんよ,と念押しされるわけだ。もしも,この書式のやり方が家に持ち込まれれば,日頃「そんなこと言ったかな」と家人の尋問をかろうじて切り抜けている筆者は,たちまち窮地に追い込まれてしまう。

 主権国家間の約束を記した文書において,玉虫色はむしろ美徳ですらある。同床異夢を許す巧みな文言で妥協を図るのは,古今東西の外交官の技量のひとつと言ってよい。「必要に応じ(as necessary)」や「適切に(as appropriate)」といった副詞句は,各国の裁量を互いに認めるための常套句である。曖昧な文言について「約束が違う」などと後で責められないよう,署名時に「わたしの読み方はこうですよ」と解釈宣言する国もある。また,締約国は,条約の趣旨を損なわない範囲において,特定の条項の義務を免れるための留保(reservation)を付すことができる。こうした一方的な意図表明も,正確を期し,後々の「言った,言わない」の芽を摘むべく紙で行われることが多い。国際約束における文書至上主義は,かように徹底している。

 さて,紙の上の文言を介して行われる多国間交渉の場では,「ペン・ホルダー(pen holder)」と称される者がいる。文書の起草から合意に至るまでの過程で,紙とペンを握って交渉をリードする国や人を指す。もっとも,最初の「たたき台」を書いて出すだけでは,その名に値しない。定型を超えた世界で,皆が話し合ったことを文書にまとめ上げ,交渉を成功に導く資質として,その道の知見と実績,多くの声に埋没しない押しの強さ,過去の幾多の文書に通暁し,「ペンだこ」も厭わない飽くなき創意と根気,スタミナと胆力などが必要だ。また,ルールの「生き字引」として手続を管理し,勝負時を見誤ることのない「段取り力」も重要だろう。さらに,交渉は,机の上だけでなく,休憩中の廊下や散会後のカクテル会場でも行われるのだから,合従連衡の中心付近に立つバランス・方向感覚や,仲間内での信頼感がモノを言うことになる。

 GATTの「ウルグアイ・ラウンド」自由化交渉は1993年末に妥結したが,その2年前にアーサー・ダンケルGATT事務局長(当時)が提示した「ダンケル草案」が協議の膠着状況を打開した。ところが,同氏の名前は,7年に及んだマラソン交渉の最終的な合意文書のどこにも登場しない。交渉の立役者には,名誉欲もなく,匿名への希求もまた,必須の資格要件とみえる。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1930.html)

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