世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
中国関与政策の前提:「経済発展と民主主義」論の再考
(亜細亜大学アジア研究所 特別研究員)
2020.09.07
米国では,中国に対する関与政策が失敗だったという認識が強まっている。関与政策は,ジョージ・W・ブッシュの1999年の次の演説にエッセンスが示されている(注1)。「経済的自由は自由の習慣を生み出す。そして,自由の習慣は民主主義への期待を生み出す。……中国と自由に貿易をしなさい。時間は我々の味方である」。しかし,中国は2010年(のちに2009年に修正)にGDPで日本を抜いて世界第2位となり,2018年の一人当たりGDPは9580ドルとタイ(7440ドル)を凌駕しているが,民主化は全く進んでいない。
リプセット仮説と権威主義政治体制溶解論
関与政策の前提は経済が発展すれば政治は民主化するという仮説だ。たしかに東アジアでは経済発展した独裁国家が民主化した。典型的な事例は台湾と韓国である。台湾と韓国では1980年代に権威主義体制が終焉し,その後民主化が推進した。東南アジアでも,1986年にフィリピン,1998年にインドネシアで独裁政治が打倒され,タイで1992年に軍事政権が退陣している。
経済発展が民主化を促進し,民主主義の安定をもたらすという考えはリプセット仮説として知られる(注2)。リプセットは経済発展を一人当たりの所得水準のみではなく,富,工業化,都市化,教育の4つの指標で測っている。また,ハンチントンは,経済発展の中位レベルの国において民主主義への体制移行が生じることを暗示していると述べ,経済発展を民主主義への主要な変革要因と位置付けている。
渡辺利夫は開発独裁と呼ばれる権威主義的政治体制下で急速な工業化を実施し,経済発展を実現するとその帰結として権威主義的政治体制それ自体が「溶解する」という論理が存在したと論じた(注3)。一方,平川均は,先進国企業と安価な労働力を結合した輸出主導型発展政策をとる新興工業経済が成長し,労働者層と中間層を生み出したことと社会主義経済の行き詰まりが民主化を進める要因になったと論じている(注4)。
権威主義的資本主義モデルの成功:シンガポール
リプセットもハンチントンも経済発展が民主化をもたらすとはっきりとは述べていないと山本(2019)は指摘している(注5)。東アジアでは経済発展し,東アジアで最も豊かになったにも関わらず,民主化が進んでいない国がある。シンガポールである。シンガポールの一人当たり所得(2018年)は6万4578ドルで日本の1.6倍の豊かさを誇り,中間層は労働人口の5割を超えている。
シンガポールはなぜ民主化が進まないのか。シンガポール研究の第一人者である田村慶子(2011)は次のように説明している(注6)。第一は国の「生き残りのイデオロギー」である。国家利益を決定するのは人民行動党(PAP)であり,シンガポールの生存=PAPの生存であり,PAPの安定した一党支配が国家の生存と繁栄の前提である。そのために野党やマスメディアなど批判勢力は抑圧された。次に中間層がシンガポールでは民主化を求めて立ち上がる可能性が小さい。政府が中間層の関心を物質的な欲求に向かわせている。高収入の仕事,高級住宅などの供給に加えて,批判勢力への容赦のない抑圧から国民の関心は政治から離れて物質的なものに向かっている。
つまり,指導層(PAP)が一党支配を最優先の戦略と考え民主化を志向していないこと,民主化を担うべき中間層の関心は豊かさにあり政治改革ではないことが,民主化が進まない理由である。権威主義と国家主導の効率的な資本主義経済運営の組み合わせがシンガポール・モデルといえよう。
不都合な事実と中国のインパクト
中国とシンガポールは,①指導層(人民行動党と共産党)が一党支配の維持を最優先戦略としており民主主義を目指す意思がないこと,②発展の恩恵を受けた都市の中間層が保守的で政治改革を指向していないこと,③国家主導の経済開発が成功していることが共通している。これは,中国がシンガポール・モデルを学んだためである。両国とも指導層が民主主義では自国を統治できないと考えており,支配政党の権力維持が最高の目標になっている。政府が中間層を経済的利益で取り込んでいることも同じだ(注7)。
2010年にシンガポールは東アジアで最も豊かな国となり,中国は東アジアで最大の経済大国となったことは,権威主義と国家主導資本主義の組み合わせは経済発展では大成功だったことを示している(注8)。これは,関与政策には「不都合な事実」である。フリードバークは,「不都合な事実」は米国の対中関与政策の論理に疑問を投げかけ始めていると2013年の時点で論じている(注9)。
シンガポールの権威主義を米国は批判していない。シンガポールは民主的な選挙制度を持つ(形式的には)民主主義国家であり,かつ反共国家だったからだ。シンガポールの権威主義的資本主義の成功は,社会の管理と統制が容易な小国かつ都市国家であることがその要因と考えられてきた。一方,中国のような大国が社会管理と統制を必要とする権威主義的資本主義モデルで成功したことのインパクトは大きい。
新興市場国での民主主義の後退
21世紀に入り新興市場国を中心に世界で民主主義,民主化の後退と呼ぶべき変化が起きている(注10)。タイ,フィリピン,カンボジア,トルコ,ハンガリーなどで強権政治が台頭している。中国では習近平政権が国家主席の2期10年という任期規制を撤廃し,メディアやインターネットへの統制を強め,中国はデジタルレーニン主義といわれるAIを利用した国民監視システムを築き,社会統制をさらに強めている。
新興市場国での民主主義の後退は,金融危機と国内格差の拡大を引きおこしたグローバル資本主義を推進してきた欧米民主主義国への幻滅がある。拍車をかけているのは,民主主義の先生だった米国で,トランプ政権が国内の分断をあおり,国際ルールを無視した自国優先政策を強行し,世界最多のコロナ感染者と死者を発生させたことである。一方で権威主義体制を維持しながら金融危機からの経済回復を主導した中国に対し新興市場国の指導者たちが親和感を持ったことがあるだろう。
シンガポールの2011年の総選挙でのPAPの得票率は60%と過去最低に落ち込んだ。2015年には69.9%に回復したものの2020年には再び61.2%に低落した。9割の議席を獲得したものの権威主義体制への国民の支持は盤石ではないことが示されている。マレーシアでは2018年の総選挙で長期政権の交代が起きた。民主主義の可能性への希望を捨てるべきではないだろう。
[注]
- (1)アーロン・L・フリードバーク,佐橋亮監訳(2013)『支配への競争』日本評論社,119頁。
- (2)この部分の説明は,山本博史(2019)「民主化と経済発展」,山本編『アジアにおける経済発展と民主主義』文眞堂,3-6頁による。
- (3)渡辺利夫(1995)『新世紀アジアの構想』ちくま新書。
- (4)平川均(2019)「グローバリゼーションと交代する民主化」山本編に所収,191-195頁。
- (5)山本(2019)5頁。
- (6)田村慶子(2011)「シンガポール-「超管理国家」の繁栄とジレンマ-」,清水一史・田村慶子・横山豪志編『東南アジア現代政治入門』ミネルヴァ書房,94-100頁,102-105頁。
- (7)フリードバーグ(2013)203頁,236-237頁。
- (8)一人あたりGDPではマカオがシンガポールを上回っているが,国としてはシンガポールが東アジアでトップである。
- (9)フリードバーグ(2013)238頁。
- (10)平川(2019)195-202頁。
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