世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
李登輝元台湾総統と日本精神
(エアノス・ジャパン 代表取締役)
2020.08.24
李登輝という人
2020年7月30日台湾の李登輝元台湾総統が97歳で亡くなられた。李登輝氏は,台湾の独裁国家を,無血で民主主義国家に変えた人である。
私の最初の会社のオーナーは,戦前父親が台湾の小学校の校長であったため台湾に住んでおり,李登輝氏と旧制台北中学と旧制台北高校で同窓生であった。1984年にオーナーに紹介してもらい,李登輝氏に台湾で会ったことがある。李登輝氏は,蒋経国総統のもとでの農林大臣をされていたが,白色のスーツを纏い,背の高いすらっとした紳士であった。大臣のような態度ではなく,大変物腰の柔らかい,一見誠実な学者のような人という印象をもった。しかし何か大きなエネルギーを感じた。李登輝氏の同級生のもとで仕事をしている私にいろいろと激励していただいた。
その後李登輝氏の台湾の旧制中学校,旧制高校の同窓生であった施純漆氏(元味全食品工業股份有限公司社長)と林廷焰氏(元南洋産業股份有限公司社長)と仕事でお世話になり,二方から李登輝氏の人となりや台湾の方々の日本と日本人についての思いをいろいろと伺った。
李登輝氏は「私は生まれてから22歳までは日本人として生き,日本人として教育されて育ちました」と言われた。京都帝国大学の農学部で勉強され,終戦後アメリカのアイオア大学,コーネル大学にも留学され,初めは学者として台湾の大学で教師をされ,その後役人になられた。クリスチャンであるが,座禅の修行もされたようである。お兄さんは日本海軍として戦地に行かれて,戦死され,靖国神社に祀られているという。
李登輝氏と同窓生の方々は,若いころは剣道をなさっており,日本の文学,思想,歴史,文化の中で育ったのだと言われていた。李登輝氏は700冊以上の岩波文庫を今でも持たれ,流暢な,しかも格式高い日本語を話され,私よりも日本人である。
李登輝氏とその同窓生によると,私の最初の会社のオーナーの父親で,台北小学校の校長であった方は大変立派な教育者であったということであった。戦前台湾の総督府で仕事をされた後藤新平も素晴らしい人であったようだ。彼は「金を残して死ぬ者は下だ。仕事を残して死ぬ者は中だ。人を残して死ぬ者は上だ」と言って,「国を創ることは人を創ることである」ことを知ったいた。後藤新平は,それまでの台湾の制度,慣習,文化を良く調査し,その上で台湾を良い国にするために行政と司法を独立した形で組織化し,教育に大きな力を入れた。後藤新平は「台湾協会学校」を創り,初代校長になって教育に力を注ぎ,日本から多くの立派な教育者,産業人,政府の要人を台湾に呼んだ。ダムや灌漑技術により台湾の治水と稲作,農業を開発し貢献した八田與一もその一人であり,台湾では八田氏を神様のように崇めている。
李登輝氏達が日本人は素晴らしいと言われるのは戦前の台湾で仕事をした日本人のことである。李登輝氏達は,日本の統治の時代に,台湾は農業国から工業国への発展の基礎を築き,政治も行政と司法を分けた立派な国家の仕組みを作ったし,日本人が台湾に近代文化を育て上げてくれたと理解されている。日本は,台湾を「搾取するという植民地」として統治したのではなかったという。児玉源太郎や後藤新平は台湾を立派な国にすると考えて行動した。このため台湾の人々は日本に感謝し,日本が大好きだ。韓国の事情とは違うようだ。
独裁国家台湾を民主主義国家にした無血革命
李登輝氏は「本省人」という台湾人であるが,毛沢東の軍隊に敗れた蒋介石が多くの手下と共に中国大陸から逃げて台湾に入っていったのが「外省人」であり,戦後中国人である外省人が台湾を支配していた。台湾は蒋介石の支配する「独裁国家」であった。蒋介石は,戦前日本によって教育された台湾の本省人のエリートを3万人虐殺した。そして本省人の反抗を封じるために,38年間「戒厳令」を敷いて支配した。言論の自由のない恐怖に時代であり,これが「白色テロ」と呼ばれたものである。
そうした中で李登輝氏は,蒋介石の死の後「台湾総統」になった蒋経国に見いだされ,政府の農業担当の行政院政務委員として入閣した。その後李氏は台北市長になり,だんだん国民党独裁の政府の中で特に農業政策担当ということで仕事をし,台湾のコメの生産を拡大し,大きな実績をあげた。李登輝氏はいろいろの実績を上げたので,その後1984年「副総統」に抜擢された。政府の要職は「外省人」のみであったが,李登輝氏が「本省人」として初めてであった。副総統にする前に蒋経国は,1ヶ月間ある人をスパイとして李登輝氏にはりつけ,李登輝氏が総統,国民党に対する忠誠心があるかどうかを確かめさせたという。
1987年蒋経国が亡くなり,蒋経国は遺言を残さなかったために,1988年副総統の李登輝氏が自動的に総統になることになった。父の蒋介石とは違い息子の蒋経国は心の中では台湾の民主主義を考えていたようだ。だから遺言として次の総統についての意向は残さなかったのではないかとも言われている。蒋経国が民主主義を考えるようになったのは李登輝氏による影響であったと同窓生たちは言っていた。蒋介石は,台湾として,日本の敗戦時に賠償を要求しなかった。「以徳報怨」(徳をもって恨みに報いる)と言ったという。これはどこからきているかは分からないが。
しかし台湾政府には外省人の長老,古参幹部が沢山おり,李登輝氏が総統になることを猛烈に反対していた。李登輝氏は,そこで極めて丁寧に長老に行政院長(首相)の座をお願いした。しかし首相になった殆どの長老は賄賂などのいろいろの問題で次々に首相の座を退任していってしまい,李登輝氏に反対する外省人の長老,幹部はいなくなった。無血でこれができたということは凄いことである。李登輝氏は「ただモノ」ではなかった。これは李登輝氏が「私心」を捨ててことにあたったからできたのであろう。
この後李登輝氏は,これまでの独裁政治を止め,国民による直接選挙で総統を決める仕組みを作った。1996年に国民による直接選挙を実施し,李登輝氏が総統に選ばれた。李登輝氏が独裁国家の台湾を「民主主義国家」にした。それも無血でやり遂げたのである。そして台湾の憲法を6度にわたり改正し,台湾の国家にした。李登輝氏は,宗教の自由,言論の自由がなければ,イノベーションは起こらないし,資本主義は発展しないと理解されていた。
李登輝氏の思想
李登輝氏と同窓の方から聞いたことであるが,李登輝氏は「私は私でない私である」と時々言われていた。李登輝氏は,好んで「誠実自然」という字を書かれた。「私心」を無くした考えと行動である。これは「葉隠れの精神」でもある。李登輝氏と台湾の人は,これが戦前の日本の人の魂であったと思っている。これを李登輝氏は「日本精神」と呼ばれていた。李登輝氏は「自分は22歳まで日本人として育ったが,自分の心には日本精神がある」と言っておられた。
李登輝氏は,この心でいろいろ仕事をし,生きてこられた。欠陥のある組織を外から批判,反抗,攻撃するのではなく,悪いものを持っている組織の中に入っていき,その中で徐々にしかも確実に変えていくとこである。独裁国家の中に入って,それを民主国家にした。李登輝氏は,私を捨て,「私でない私」として,事に当たったからできたのである。これが本当の革命家の仕事であるのだろう。レーニンも,毛沢東もこれができなかった。日本の自民党も,野党も,李登輝氏のような精神で,日本の国を変えるように努力をしなければならない。
李登輝氏は,単なる人の良い学者や,役人ではなかった。「イノベーター」であった。ましてや,自分が出世をしようとして役人になられたのではなく,自分の利益のために動く人ではなかった。
李登輝氏はとても好奇心の旺盛な人である。特に新しい産業に大変興味を持たれており,台湾の半導体産業の育成にも力を入れられ,台湾のハイテク産業を育てられた。最近李登輝氏は,これからIOTの世界が来るので日本と台湾でこの新しい世界を一緒に切り開こうとも言われていた。
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