世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1787
世界経済評論IMPACT No.1787

ドイツ憲法裁判所のQE違憲判決の問題性:フィナンシャルタイムズはどう見たのか

田中素香

(東北大学 名誉教授)

2020.06.22

 去る5月5日,ドイツの連邦憲法裁判所がECB(欧州中央銀行)の量的緩和策(QE)の一部に違憲(ドイツ憲法に違反)の疑いがある,という判決を下した。

 コロナ危機の下でQEが制約されれば,話は深刻だ。また,ユーロ加盟国の憲法裁判所が国の好みでECBを縛ることになれば,ECBの金融政策は成り立たない。さらに,EU司法裁判所(CJEU)が2018年12月に下したQE是認の判決を覆す判決なので,EUの法秩序を混乱させかねない。

 ドイツでは通貨統合を定めたマーストリヒト条約訴訟に始まり,EU通貨統合関係の違憲訴訟が続いている。ユーロ危機沈静化の決め手となったOMT(満期3年以上のユーロ加盟国国債の無制限購入にも違憲訴訟が起きて,憲法裁はCJEUに先行判決を求め,合法との判決を受けてドイツの訴訟を結審した。今回のQE訴訟は2015年開始,ドイツ憲法裁は17年EU司法裁判所に先行判決を求め,18年12月にEU司法裁はQE合法の判決を下した。

 ドイツ憲法裁は今回それを却下し,自ら判決を下した。「CJEUの見解は明らかに比例性の原理の重要性と範囲を考慮していない,……QEプログラムの経済政策効果を完全に無視しているので,方法論的な展望からしてまったく弁明できない」。判決文は第2法廷のHuber判事によるというが,CJEU批判の論調は厳しく,ドイツでも「宣戦布告のようだ」との声もある。

 6月1日の本欄で紹介したように,憲法裁のいう「比例性」とは,QE政策の目標(2%近傍のインフレ率達成)とQEの政策効果とのバランスということである。ECBは19年11月までに2.1兆ユーロの公的債券購入を行った。「ECBは,無条件にQEの金融政策目標を追求する一方でその経済政策効果を見落としており,明らかに比例性原理を無視している」と憲法裁はECBを批判する。それを合法としたCJEUの判決は条約によって与えられたその権能を越えた行為だとした。

 この憲法裁判決に対してヨーロッパの世論を代表するフィナンシャルタイムズ(FT)はどう評価したのだろうか。論説委員マーティン・ウルフは,5月13日,「歴史家は将来この判決を統合解体への決定的な転換点とみなすかもしれない」と位置づけた。QEを含めてECBの政策は,物価安定という主要目的に対する手段であり,目的を実現できていないゆえにQE貫徹は正当化される,と論じた。CJEUの18年判決と同じ論法である。さらに,憲法裁は,ECBが憲法裁に満足のいくような「比例性評価」を実施するまでドイツ連邦銀行(中銀)にQEに参加してはならないと判決したが,ECBも加盟国中銀も「いかなる他の団体からも指示を求めあるいは受けてはならない」と条約に定めており,憲法裁の言うとおりにすると,ドイツ連銀は法と衝突する,と指摘した。

 中央銀行の独立性を憲法裁が掘り崩している。他の加盟国の憲法裁が追随すれば,ECBは切り刻まれて機能できず,EU統合解体の危機になる。EUはドイツ政府を相手に権利侵害訴訟を起こすことはできよう,ドイツのユーロ圏離脱も可能だが,それが「比例的」かどうか分析が求められると,痛烈な皮肉で論を閉じている。5月15日のフィナンシャルタイムズの社説も,条約の番人である欧州委員会は違法行為への対抗が必要とした。

 これに対して,英国下院外交委員会委員長のC. Tugendhat(かつてEC委員会委員,副委員長をつとめた),ユーロ関係の多数の著書をもつDavid Marsh など英国の識者4人が連名でFTに投書し,「FT社説は根拠があやふやだ。例外のない規則はない」と批判し,EU条約第4条2項に「EUは……加盟国の国民的一体性を尊重する」との規定がある。また憲法裁とドイツ連銀は国民の支持も高い。EUはドイツをEU法違反にできるのか,と疑問を呈した(5月19日)。

 同日,FTのグローバル・コメンテーター,ギデオン・ラックマンは「EUは生き残るために後退しなければならない」と述べて,ウルフや社説と対立した。憲法裁判決はドイツとECB・CJEUとを直接対決させ,衝突の危険が高まっているとしつつも,「英国のないEUはありえても,ドイツのないEUはない」と,慎重な対応を求めた。ドイツ国内では今回の判決への批判が強い。判事はドイツの小規模な保守的見解を反映している。コロナ危機の今日,ECBの自由行動を縛るようなことがあれば,ユーロは生き残れないかもしれない。ドイツ憲法を修正する道もあるし,EU条約の改正もありうる,と締めくくった。

 筆者はFTが明示的に取り上げない論点が気になった。憲法裁判決のプレスリリースでは,憲法裁はQEの「政策効果」として,4点を列挙する。①ハイリスクの国債が大量にユーロ圏の中銀保有となり商業銀行の信用格付けを改善するなど弱体の商業銀行を支えている,②株主,テナント,不動産所有者,貯蓄者,保険証券保有者などほとんどすべての市民への低金利の影響(民間貯蓄者の利子損失など),③ゾンビ企業の延命,④QEの経済政策効果は購入額と継続期間から生じるので,期間が長引き額が増えるほどにユーロ圏の中央銀行制度は加盟国の政治に依存するリスクが大きくなり,QE終結は通貨同盟の安定を危機にさらすようになる。

 このうち②の低金利批判はユーロ圏全体に当てはまるであろうが[もっとも債務者(若者など)に有利な面もあるはずだが,マイナス面を重視],①③はQEによりイタリアやギリシャなど南欧諸国の弱体化した商業銀行やゾンビ企業が救済されると言いたいようだ。④もQEは経済・財政の実績の劣る南欧諸国救済に使われていて,長期化すると通貨同盟は危機に陥る,というQE批判である。

 憲法裁は,QEが南欧支援に野放図に使われているが,通貨同盟を守るためにQEをできるだけ早く停止せよ,と求めているのである。独連銀のQE不参加の要求もそれと関わる。

 この訴訟の原告団は1750人から2000人,法学教授と経済学教授がリーダーで,反通貨統合の筋金入りだ。その一人,ルッケ教授(Bernd Lucke)は,「ドイツのユーロ離脱・マルク復帰」を掲げて政党AfD(ドイツのための選択肢党)を2013年に立ち上げ,「教授の党」の党首となった。しかし,ドイツでユーロ支持率は高まり,「南欧諸国をユーロ圏から追放」に切り替えたが,党は崩壊の瀬戸際へ。その2015年,シリア等から100万人を超える難民がドイツに流入,AfDは反移民・反イスラムの極右政党に脱皮し,教授連は離党,だが,その信念は変わっていない。

 南欧を絡めた憲法裁のQE批判の判決はルッケなど原告団の主張と呼応している。戦後西ドイツを支配した「オルド自由主義」は規律を重視し,財政均衡など反ケインズ主義の経済政策を支えてきた。規律にゆるい南欧諸国を抱えて動いている現在のユーロ,ECBに危機感を抱き,南欧のいない通貨同盟あるいはドイツ・マルクへの回帰のような現状破壊的な願望を抱く。ドイツ国家主義の現代版とみなすこともできる。

 5月18日,メルケル首相はマクロン大統領と共同で5000億ユーロのEU共同債を発行し,コロナ危機に苦しむ南欧に補助金(返済不要)を支給すると声明を発した。憲法裁判決を首相と政府が批判したと見ることもできる。FTの政治コメンテーター,フィリップ・スティーブンスは5月22日,憲法裁の「ドイツのためのヨーロッパ」観とメルケル首相の「ヨーロッパのためのドイツ」観の対立を描き,ドイツの政治家は「ヨーロッパのためのドイツ」とは何なのか,新たに定義する必要があると論じた(5月22日)。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1787.html)

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