世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
危険社会下のコロナウイルス対策
(元立命館アジア太平洋大学 教授)
2020.04.27
ベックは『危険社会』でリスク社会の特徴を,①個人としての神,②再帰的近代化(近代化の歪の反省),そして③専門的知識が必要だが政治家が判断する,との三点にまとめている。経済を過剰に重視する政治家③が,グローバリゼーションの歪であるパンデミック②を契機に,善意・好意でもってSNS発信する個人としての神①によるインフォデミック(情報の感染爆発)を生んでいる。①には悪意でフェイク・ニュースを流す人もおり,国民の多くは,政府が行動変容による外出自粛要請をするのは,経済>命の故だろうと考え,政府を信頼しなくなり,不安は倍増される。この傾向を見知った日本政府は,経済崩壊ではなく医療崩壊を避けるための外出自粛要請だから命>経済なのだと言い繕ったが,休業補償ができない故に休業要請をしないと判ってしまうボロが出た。
行為の要因は目的,価値,欲求(欲望)で分析できる。ヴェーバーは目的合理的行為,価値合理的行為を言ったが,欲望合理的行為は言わなかった。欲望=感情は理性の対極にあるので合理=理性では分析できないからだ。作田啓一は『価値の社会学』で,「ウェーバーが『正当性の諸根拠』の中から利害状況を除外したのは,恐らく自己中心的利益関心(self interest)の主体としての個人はそれ自体では模範的権威の担い手となることはできないと考えた故だろう。…目的・価値・欲求の相互連関の分析は動機分析であり,外部の状況側に位置する諸要因の目的に対する作用分析は状況分析だ。動機分析と状況分析の総合は,行為理論では困難で,機能主義理論に任された」と書く。
イスラム国インドネシアでは,価値合理的行為がコロナウイルス感染を拡大させている。ジャカルタ特別州知事が金曜日のモスクでの礼拝自粛を要請したところ,「コロナウイルスは神の与えた試練だ。モスクで礼拝できないのならウイルス感染で死んだ方がましだ」との反応が多く見られたという。4月23日より始まるラマダンでジャカルタから大量の人たちは地元に散り,昼水も食事もとらない代わりに夜皆で集まって食事をとる。副大統領はイスラム団体の宗教指導者だから,大統領は自粛要請以上はできないだろう。
self interestの主体としての個人が,個人自体としては模範的権威の担い手になることができないのは,社会学という学問が,人と人,人と集団,集団と集団を扱うからだ。経済学では個人はself interestの主体として模範的権威の担い手なのは大前提だ。社会学という名の学問的誠実さが,社会分析の不誠実さを生んだ。学問的誠実さの名の下で,貪欲資本主義者は合理的経済人の中に入れられている。強欲は合理的な理性的活動だと経済学は言い過ぎて近代化の歪を生んだ。経済学も人と人,人と集団,集団と集団を扱うが,個人的強欲それ自体は権威・価値だ,理性的活動だと経済学は言い張り過ぎだ。経済崩壊を恐れるあまり命を軽視する結果を招いている政治も同類だ。
『千のプラトー』によるポスト・モダンの考えによる以下の分析が可能だ。日本の政治セクターを率いる安倍政権は,経済崩壊があっては困ると考える欲求を持ち過ぎている。この欲求を欲望肥大と捉えてみると,この考えに対抗する,経済崩壊より命の方が重要だと考える欲望エネルギーが強くなった。この命重視派と個人としての神派が組んだ欲望エネルギーが器官なき身体の中で強くなり,命>経済と言う器官を成すリゾーム型構造を作り,経済的豊かさの観点を重視したグローバリゼーションを進めてきた国民国家の間の断層を乗り越え地層をまたいで,経済>命と言う国民国家というツリー型構造に,意味による差異で挑戦している。
分析は解決策のヒントとなる。命>経済を利他性によりアピールする必要がある。日本政府自体もリゾーム型構造の中で支援するメンバーだとアピールする。ちょっとした支援の手法を使うナッジの行動経済学が使える。福島原発爆発後の特定都市別の放射能汚染データが新聞に半年程度掲載されていた。「あなたの3密を避ける行動が,周囲の人の命を助ける」「あなたの夜の繁華街での3密行動が周りの人の命を危険に晒す」とのメッセージを,夜の繁華街毎の人出と夜の繁華街がクラスターになったビックデータ・感染者数の日毎の推移とセットにして流すのだ。恥ずかしいから出歩くのは止めよう・外出は自粛しようとのシェイム・エフェクトが効く後押し(ナッジ)になる。個人としての神派に,政府も命>経済グループに属すると判らせる価値合理的行動が,彼らを分裂させ,経済>命派を貪欲資本主義者として孤立させることに繋がる。非常事態は8割の外出削減なら1か月,7割の外出削減なら2か月続くとの専門家発言を政府も共有するとのアピールも孤立に役立つ。self interestの主体としての個人のままで,個人としての神派の大部分が,政府も命>経済グループの仲間なのだと思うようになる。国民国家の中の国家セクターは味方だと信頼するようになる。そこでは機能主義による機能重視ではなく,意味による差異が重視されている。
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