世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
社会的共通資本での思い込み
(元立命館アジア太平洋大学 教授)
2025.02.17
2025年2月1日付日経読書欄「リーダーの本棚」で,国際教養大学のモンテ・カセム学長は言う。同学長は筆者が15年間勤務した大学の元学長だ。
「香川県の満濃池に代表される日本の古いため池建設の土木技術は,源流がスリランカにあります。まずスリランカで仏典を学んだ中国の高僧,法顕が故国に持ち帰り書物に記しました。その400年程後,長安で学んだ空海が法顕の書から学び,日本に持ち込んだ。私が影響を受けた経済学者,宇沢弘文は『社会的共通資本』でスリランカ由来のため池を紹介しています」。
新聞見出しは,「出身国スリランカには2000年の伝統を持つ巨大な人造の“ため池”がある。日々の生活,農業に欠かせない灌漑施設は共有財。これが日本に伝わり役立ったことを喜ぶ」だ。満濃池は701年頃,讃岐国守・道守朝臣が築いた。818年洪水で堤防が決壊した満濃池を空海が821年に改修した。
「社会的共通資本」を言い出した宇沢弘文は,『経済学は人びとを幸福にできるか』(2013年)「第18章 空海が学んだスリランカの溜池潅漑」を書いた。宇沢弘文の根拠は法顕の『仏国記』英語版によるようだ。『仏国記』邦訳は平凡社が出した『法顕伝』だ。2年間滞在したスリランカの記述中に溜池は出てこない。
空海が法顕の書いた『仏国記』を留学先の長安で読んだとするのも推測だ。法顕は長安から出発したが,広州に帰国し山東半島に着いたが,長安には戻らず,南京で涅槃経を仏陀跋陀羅と共に418年に訳し,422年に湖北省で死んだ。空海の溜池工事技術は,余水吐きと呼ぶ,余分な水を流下させるダム本体に設ける水路口と,水の圧力を分散させるアーチ型の堤に特色がある。その技術を空海は,僧の学芸「五明」中の「工巧明」(工学・数学の知識)を学ぶ過程で身に付けたとのweb記事(pilgrim-shikoku.net)の方が,信頼性がある。614年頃に大阪狭山に作られた日本最古の溜池・狭山池にある狭山池博物館の小山田館長の講演記事によれば以下だ。スリランカの溜池は稲作中心の高原乾燥地帯にある。丘陵の谷の出口を締め切るタイプと,川から引水して貯水するタイプがある。川に堰を作り溜池に水を引くが,溜池は独立しておらず,上流の溜池の余水を下流の溜池に貯める連珠式が多い。満濃池とスリランカの溜池は似ていないようだ。日本と朝鮮半島の古代溜池は,盛土に木の枝を敷き詰め,堤や地盤を強固にする「補強土工法」で共通しており,技術は朝鮮から伝わったらしい。
「溜池の土木技術はスリランカから法顕経由で伝わったのかもしれない」と推測・仮説として語ることしか,実証が必要な学者には許されないのでないか,と筆者は思う。推測を史実・事実だと断定して,社会的共通資本の認識が必要だと言えば,社会的共通資本の必要性の認識は,いい加減なものだと言われかねない。
社会的共通資本には自然資本(大気,水,森,河川,海洋,土壌等),公共インフラ(道路,交通機関,上下水道,電力ガス等),制度資本(教育,医療,金融,立法,行政,司法等)がある。国際ビジネスで活躍したい日本人と留学生を多く抱える大学には,社会的共通資本の教育分野での多文化共生を担う使命がある,と思う。スリランカと日本が多文化共生することは望ましいが,史実・事実に基づかないことを史実・事実だと断定しては,SNS上で氾濫している虚偽情報と同様なことを,大学が発信していると言われかねない。実証と非実証を分けることが必要な学問を,善いことを社会に発信する為に曲げる,曲学阿世の新タイプかもしれない。
筆者は教授時代,ウズベキスタンからの留学生5人と対談した。ウズベキスタンの英雄ティムールは明への遠征途上,カザフスタンのオトラルで風邪をひいているにもかかわらず酒を呑み続け死んだ,と筆者が言うと,留学生の一人が強く反発した。イスラム教徒であるチィムールは酒など呑まない,史実は嘘だと,彼は言う。イスラム教の開宗以来あった禁酒戒律が,厳格に守られるのは近代になってからだ,と彼は知りたくない。現在の眼で過去を見ている。他の4人に筆者と彼の発言につき意見を求めても答えない。この4人は,ハマスの武力闘争戦略に内心反対でも口に出せないガザ市民と同様だと今筆者は思う。
「日本経済の失われた30年」も,仮説を,実証された事実だと捉えた故ではないかと思う。バブル経済崩壊後のデフレ対策としての,大胆な量的金融緩和政策を継続すれば2%の物価目標は達成できるとの仮説は,企業と国民からの人気を得続けることに傾注する保守的な安倍政権にとって都合よく,実証された事実と錯覚したかったのだろう。八潮市の下水管破損による道路陥没事故も,公共インフラ修繕予算不足の事実を,耐用年数以上に下水管は長持ちすると思い込みたい県幹部の仮説の結果かも知れない。全世界で社会の保守化と分断が進んでいる。SNS発信を政治の道具にするトランプ大統領は,気候変動条約脱退で自然資本の持続可能性を低くし,WHO脱退とUSAID廃止で,国際的な医療を含む制度資本の機能は低下する。教育という制度資本の精度は維持して社会的共通資本への信頼性を高めて欲しい,と思う。
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