世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3949
世界経済評論IMPACT No.3949

賃と質

鈴木康二

(元立命館アジア太平洋大学 教授)

2025.08.18

 質は斦と,賃は任と貝で出来た漢字だ。斧2丁が釣り合う,機糸を巻く人が得る,金銭だ。2025年8月10日付け日経「News Forecast」は「8月15日 4-6月GDP発表」で以下を言うが,トランプ関税の影響で賃金は低下し兼ねないとの見方は,おかしいと筆者は思う。

 「トランプ関税による輸出への影響は今のところ大きくない。…6月の貿易統計で米国向け自動車の輸出額は前年同月に比べ27%減った。…自動車メーカーは関税の影響に輸出価格の引き下げで対応している。…輸出価格の引き下げは収益を悪化させ賃金の低下に繋がり兼ねない。…インフレ率を上回る賃金上昇,消費の裏付けとなる所得の改善は道半ばだ」。

 記者と民間エコノミストは「収益悪化は賃金低下に繋がり兼ねない」となぜ平気で言えるのか? 企業経営者に賃下げのフリーハンドを与える言い方だ。賃金を下げるのは危機的な収益悪化があった場合だけだろう。日本の賃金交渉は自動車産業がリードしている。自動車産業で賃下げがなされれば,日本企業全体の賃下げを引き起こし,民間消費は下がる。失われた日本経済の30年に舞い戻ることになる。

 8月8日付け日経には,トヨタは2026年3月期の連結純利益見通しを前期比44%減の2兆6千6百億円とした,とある。売上高見通しは48兆5千億円と変えず,営業利益は33%減の3兆2千億円とした。トランプ関税で営業利益は1兆4千億円(車両分1兆円,取引先支援も含めた部品分4千億円)下がり,労務費等で3千5百億円下がり,円高による為替の影響で7千億円下がる。営業利益を引き上げるのは台数構成の変化等で6千5百億円だ。賃上げは労務費等の引上げにより利益を引下げる。労務費等による利益引下げ額は,円高による為替の影響による引下げ額の半分だ。それは台数構成の変化等による利益引上の半額でもある。台数構成の変化等で賃上げは十分カバーできる。

 賃上げによる消費増とGDPの持続的成長が実現出来そうなタイミングで,「収益悪化は賃金低下に繋がり兼ねない」と言うのはおかしい。日本的経営が,株主と従業員と顧客の三方良しを目指す利害関係者資本主義だったからこそ,日本はGDP世界第二位の大国となり,日本的経営が株主資本主義の欧米先進国で注目されたことを忘れた言い方だ。従業員を長期的雇用と年功給,4月一斉入社,最終手段としてしか会社都合による解雇はしないことで,従業員は会社への信頼感を高め,熟練とチームワークによるミス防止と技術移転促進そして工夫・カイゼンによる生産性向上が期待できた。会社が忠誠心を強いたと見るのは間違いだ。賃上げがあってこそ労働の質の向上が図られる。

 今,日本企業の経営者に求められていることは,人口減で人手不足になる下で,リスキリング・DX・女性管理職登用で労働生産性を上げること,人的資本に投資して研究開発投資による技術革新が生れ易くすることを実践し,GDP成長の推進役となる事だ。いくら資本があっても設備投資(設備インフラの新設と保全・補修,DX投資,環境投資)をしなくては資本によるGDP成長は無い。利益を上げて株主に配当増と株価上昇で報いるべく,設備投資,研究開発投資そして賃上げをせず,退職正規労働者の労働を不正規労働者とサービス残業で補填して来た,後ろ向きの経営が,失われた日本経済の30年を生んだ。「選択と集中」の名の下で「やらない,しない」保守的企業経営者が増えた。

 ギャラップ社が2024年6月に発表した世界各国従業員エンゲージメント調査報告によると,日本での「仕事に対して意欲的かつ積極的に取り組む人」の割合は6%で,125か国平均23%の中で世界最低だ。「やらない,しない」経営者が「言われたこと以外させない,やらせない」企業風土を作った結果だろう。ESG投資で自社の成長がGDP成長に寄与すると考える経営者が求められている。

 日本生産性本部の調べでは,日本の一人当たり付加価値労働生産性は,2023年,OECD加盟38カ国中29位でG7最下位,1970年以降最低順位だ。日本の就業1時間当たり労働生産性は$57だ。円安で低く評価されているが,円安はゼロ金利と大幅量的金融緩和で2%物価上昇はできるとした,安倍元首相の保守政治が招いたものだ。8月6日付け日経「やさしい経済学」「生産性の真実と課題6」で木内康裕は付加価値労働生産性=物的労働生産性×価格×付加価値率だから,業務プロセスを効率化して物的労働生産性を高めても,粗利を削って値下げすれば,付加価値労働生産性は改善しない,と書く。生産性向上には,価格を上げ利幅を大きくし,顧客が喜んで支払う,高品質でイノベーティブな製品やサービスを提供することが重要だ,とする。

 日本の上場企業には人的資本の情報開示が2023年3月から義務化された。背景には,人的資本は無形資産の一つ,ESG経営に関わる,企業の将来性指針となる,との考えがある。開示項目は,従業員の状況(男女間賃金格差,育児休業取得率,女性管理職の割合等),人材育成(研修時間,参加率等),従業員エンゲージメント情報だ。従業員個人が持つ能力やスキル,資格を資本として捉え,従業員エンゲージメントを高める企業経営をしないと,企業価値が下がる時代になっている。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3949.html)

関連記事

鈴木康二

最新のコラム

おすすめの本〈 広告 〉