世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
武漢,グローバル化経済の暖流と寒流がせめぎ合う急場で
(外務省経済局 国際貿易課長)
2020.04.13
武漢は古くから,兵家必争の地だ。
5年前,筆者も北京にある日本大使館に勤務していた折,湖北省を訪れ,赤壁や荊州古城などの三国志の古跡で群雄に思いをはせ,長江の畔では雲霞の如き産業集積とおびただしい物流に刮目した。
明治から昭和初期の東洋学者であり,当時,大阪朝日新聞の記者だった内藤湖南は,1911年,中華革命の狼煙をあげた武昌蜂起の消息を伝える記事の中で,かの地が「長江地方の一番枢要な土地」で,「京漢鉄道との道路交通の中心」であり「漢陽の製鉄所のごときを控えておる」とその地勢を説明した上で,四川,湖南,襄陽等の四方に通じる「支那の中腹」で騒動が起こったとことがことのほか重大だと論じた(明治44年10月17日−20日同紙)。
今日も,武漢は盤上の要石である。いまだに鳥獣魚菜が天秤棒で売られているこの街の市場を散策したビジネスマンが,翌日には,英国シティを闊歩する。グローバル経済にむき出しになり,モノ・ヒト・カネ・情報のすべてを勢いよく吸収し,放散する。都市そのものが,いわば巨大なクラスターであり,爆発的にウィルスが拡大する条件を備えていたのだ。
ところが,最近,古来要衝を占めてきたこの都市の存立を脅かす事象が相次いでいる。
新型コロナ感染がもたらす短期的な経済損失ばかりではない。パンデミックの発生源という事実によるマイナスの印象もあろう。こうした痛手から立ち直ることは確かに困難ではあろうが,それでも,以下述べるような「慢性疾患」に比べれば,ほんのかすり傷に過ぎないとすら思われる。
武漢にとってより深刻なのは,感染拡大の初動における情報統制や医療対応の遅れが,現地当局,ひいては中国の統治システム全般に対する市民社会や投資家の疑念や不安を決定づけたことだ。これを回復するためには,中国が多大な努力と時間を払わねばなるまい。
中期的にも,「中国製造2025」に邁進する国内屈指の産業集積地が対応を迫られているのが,米中間の貿易を巡る対立である。トランプ政権による中国製品への関税引き上げや調達禁止,また中興通訊(ZTE)や華為技研(ファーウェイ)等への技術提供の禁止といった措置から,地元の電子・情報産業を中心に需給両面で米国頼みの武漢も決して局外中立ではあり得ない。
さらに,長期的視座に立てば,昨今のデジタル化の進展は,これまで,分厚い余剰労働力と近代化以降の産業集積を基盤として,グローバル・サプライチェーンに組み込まれ成長してきた武漢の趨勢的な凋落を呼ぶ可能性がある。
例えば,ロボットなどの工作機械は,かつて中国の「お家芸」だった労働集約的な組立作業を代替している。欧州では,中国国内の賃金上昇に加え,長距離輸送によるリスクや費用を避け,域内でサプライチェーンを短く閉じる「地産地消」の動きも出てきている。
また,三次元プリンタの登場は,特定の金型がなくても精巧な部品製造を可能にする。さしもの中国版「下町ロケット」の町工場も虎の子を失っては青息吐息だろう。
さらに,武漢の裾野に広がる自動車や携帯電話の生産工程で見られるような部品のモジュール化により,内製から外注方式への移行が促されている。企業間の垂直的な相互依存が,市場を介した水平的契約に変わることで,武漢企業がグローバルな供給網からはじき出されるのか,競争力を高め一層深く食い込むのか。企業形態の変化の効果は正負いずれにも作用し得るので,一概に評価するのは難しい。
第二次大戦後の自由貿易体制と産業・情報革命は,グローバルな国際分業システムを直線的に推し進めてきた。企業は,各国の比較優位に応じて効率的に資源を配分すべく,生産工程の鎖を細分化し,それをつなげて総距離を伸ばしてきた。「短い鎖を長く連ねたサプライチェーン」は成長の定石だった。
しかし,近年,遠くで起こる感染症や気候変動などのリスク,産業空洞化に現れる分配の問題を巡る保護主義の台頭,グローバルな自由貿易を成立させてきた国際協調への反発,そして深層におけるデジタル経済の進展などが,常識を上回る規模と速度で,武漢の地勢的優位や成功物語,それを支えてきた国際貿易投資システム自体を動揺させている。
武漢はひとつの例に過ぎない。しかし,これほどグローバル化の暖流と寒流がせめぎ合う国際経済の急場や人々の心象風景が劇的に投影された例もほかにないだろう。
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