世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
J・S・ミルの憂鬱
(杏林大学総合政策学部 教授)
2019.12.16
J・S・ミル(John Stuart Mill,1806~1873)は,単に経済学者であることを超えて,スケールの大きな社会思想家であった。しかし同時に,疑いもなく経済学者であった。系譜としてはいわゆる「古典派経済学」に属し,アダム・スミスの経済思想の継承者ということになる。
したがって,彼の経済学もその基本は「自由放任主義」が原則である。しかし,時代と彼の知的誠実さは,単に同時代の有象無象がわめきたてるドグマと化した自由放任主義をただ繰り返すことを,彼に許しはしなかったのである。
あたかも自然法則であるかのように,その賃金が生存ギリギリの水準に安定化すると予想された賃金労働者たちは,もはやそれを粛々と受け入れる個々人ではなく,一つの階級として,社会に小さからぬ波を起こしつつあった。
1811~1816年のラッダイト運動,1816年ロンドンにおけるスパ・フィールド暴動,1819年にマンチェスターで起こったピータールーの虐殺,1830年のスウィング暴動。そして同じ年のパリでは七月革命が起こった。それらはいずれも民主化を要求する市民革命ではなく,プロレタリアートによる暴動であった。
そして奇しくも,J・S・ミルがその主著である『経済学原理』を著した1848年は,マルクス=エンゲルスによる『共産党宣言』が出版された年でもあった。
そんな中で世に問われた『経済学原理』は,アダム・スミスの経済学を継承する体系書・教科書であるべく著される一方で,彼はその自著の第5編を政府の役割について論ずることに当てざるを得なかったのである。かつてこの本の日本語訳は岩波文庫で5分冊になっていたが,第5編「政府の影響について」は,その5冊目が丸まる当てられていたものだ。それは決して,本論へのただし書きではないのである。
J・S・ミルはきわめて周到に,慎重に政府の役割を論じていく。一方において,アダム・スミスの継承者として,他方において,自由放任をドグマのように叫ぶ経済学者へ向けて,そして無視し得ない現状に対処すべく,政府の役割を拡大する可能性に思いを馳せながら。
彼はそれを「政府の随意的機能」と呼ぶ。それが政府の機能であることに対して反対論も予想されるが,彼は明らかにその必要性を主張するところの機能を意味しているのである。
その中には,初等義務教育,児童・青少年の保護,労働時間の短縮,最低限の救貧,基礎研究や科学的発見への補助といったものが含まれている。そして,それを主張するために彼が用意した周到な論拠は,興味深く,時代を超越したものである。曰く「教育が必要な者ほど,自らそれを欲しない」。曰く「刑務所と同等以上の生活を政府が保証しなければ,貧しい人々に犯罪を奨励するのと同じことである」等々。今日の経済学なら「インセンティブ」と呼ぶものに言及しているわけだ。
もちろん今日的な観点から見れば,彼が付与した政府の役割はまことに細やかなものだ。そこには福祉国家的な所得の再分配や社会保障制度,政府による景気対策のような考え方は微塵もない。正統派の王道にどっかりと腰を据え,むしろ現状への対策において消極的な博愛主義者であったと評価されても仕方あるまい。
しかし私は,J・S・ミルの経済学者としての誠実さをもっと評価してあげたい気がするのである。アダム・スミスは,国防や警察・司法といった,自由競争メカニズムがそれ無しには機能し得ない「舞台」を適切に整えることを政府の役割とした。
J・S・ミルは,同じく自由競争のメカニズムを賞揚し,アダム・スミスの経済学を敬意をもって継承する一方で,政府はその「舞台」を整えるだけではなく,自由競争の「結果」にも何らかの対処をせざるを得ないことを認めずにはいられなかったのだ。正統派経済学の大家としては,何とも憂鬱な決断だったのではないだろうか。しかし私は,そこに社会的現実と常に向き合うことを止めない,経済学者としての彼の誠実さを見るのである。
もちろん,そうは言っても,その憂鬱は,J・S・ミルをそれほどは苦しめなかったのではないかと想像している。なぜなら,「満足した豚であるより,不満足な人間の方が良い。満足した馬鹿者であるより,不満足なソクラテスの方が良い」,そう,これもまた彼の言葉だから。
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