世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1437

責任ある企業行動(RBC):中国商務部S処長の情熱と蹉跌

安部憲明

(外務省経済局政策課 企画官)

2019.08.05

 満員御礼の会議場に失笑が広がった。4年前の北京のうららかな春,経済協力開発機構(OECD)と中国商務部傘下の研究所が共催した「責任ある企業行動(RBC: Responsible Business Conduct)」に関するセミナーでの一幕だ。OECD事務局に長年勤めるA氏が,不用意にも「ブラジルもインドもやるのだ。彼らに出来て,貴国に出来ないはずがない」と一席ぶった際の会場の反応である。「結局のところ,欧米人の誰も何も分かっちゃいない。俺たちの国の難しさを……」。次の瞬間,中国商務部のS処長の視線とぶつかった。彼は,中国側の窓口責任者。当時,在中国日本大使館で勤務していた筆者にとり,現代版「洋務運動」の旗手のような存在だった。習近平政権の掲げる「新常態」への転換を目指して,欧米の経済社会制度を貪欲に吸収し,故国の大地に応用することに日夜汗をかいていたからだ。S処長は,OECDの先進国スタンダードが商売の足枷になるのではないか,という役所の上司や企業経営者の懐疑的な声をなだめながら,今回のセミナーの開催にようやく漕ぎつけていた。その日の薄暮の中,党長老の揮毫なる表札が掛かった建物から家路につく彼の背広は,達成感よりも挫折の影でシワシワに見えた。

 「責任ある企業行動」とは,多国籍企業が,投資先で,単に適法であるだけではなく,社会的・道義的にも期待され責任ある行動をとることを趣旨とする。自らが引き起こしかねない悪影響を予見し,それを防止するために適切な努力を払うことまでを含む。法を踏み外して訴えられるのは当然としても,道から外れて思わぬ悪評が立てば,不買運動にもつながりかねない。長いサプライチェーンを通じて資本関係を有するパートナーや,子会社の行動についても社会的非難の的になる。RBCは,企業にとり,いまや「三方良し」といった課外活動ではなく,守らなければ命取りになる必修科目なのだ。そのために,OECDは,企業が当然払うべき努力について共通のルールや一定の基準を定める。その上で,各国政府に国内の履行状況を定期的に報告させ,互いに監視し合うことで,さらなるルールの強化や実施の徹底を図っている。OECDは,これまで,鉱物,採掘業,農業,衣類・靴,金融の5つの分野について企業が参照すべき手引書(デュー・ディリジェンス・ガイダンス)を策定してきた。これらは,それぞれの業界の事情を読み込み,サプライチェーンの上流から下流まで,企業が問題発生を未然に防ぐための実践的な行動基準である。このRBCの枠組みには,2019年8月現在,OECD加盟36か国に加え,非加盟の12か国が参加している。

 S処長の事前の心配をよそに,中国企業経営者や法務担当者は,われわれが「紙爆弾」と揶揄するOECDの分厚い英文資料を読みこなしてセミナーに臨んだ。丸2日間,OECDの専門家との間に,実に嚙み合った意見交換が繰り広げられたのである。「責任ある中国企業」——。これこそ,中国側で高まりつつある目的意識だ。中国は,OECDに加盟しておらず,RBCの協力枠組にも加入していないが,会合の満員御礼にはそれ相応の理由がある。アフリカや中南米など投資する先々で,中国企業のなりふり構わぬ利得行為は,劣悪な労働条件,環境汚染や贈収賄などの問題を起こしてきた。安価な労働力を酷使し,粗放的なやり方で環境に負荷をかける中国企業の振る舞いが,世界各地で引き起こす摩擦が日常の光景になって久しい。これでは,中国企業の持続可能な現地展開は覚束ない。外国企業が軒並み準拠すべきとされるOECDのルールやスタンダードの習得と遵守は,息の長い商売の役に立つ。中国自身,この効用に気がついている。摩擦防止策や問題発生時の対応策の検討という,まさしく危機管理の観点からの緊張感のある質疑応答に,S処長は確かな手応えを感じただろう。

 この日のセミナーには,OECD事務局,国連開発計画(UNDP)北京事務所,OECD加盟国大使館等が,中国側からは商務部のほか,国有資産監督管理委員会,国家質検総局,工業信息化部等の政府機関,企業側は,鉱工業や繊維業界の団体や大小さまざまな企業関係者が出席した。常連には,中国五鉱化工進出口商会がいる。工業製品の生産に不可欠な,すず,タングステン,金等の金属資源をアフリカの紛争地域を含む国からの買付に頼る輸出入業者の互助組織だ。その年の暮れ,この業界団体は画期的なことをやってのけた。OECDの指南を仰ぎつつ,先進国の標準には及ばない中国側の固有の事情を加味した上で,加盟企業の海外での活動を自主的に規制する指針として,「責任ある鉱業サプライチェーンのための中国のデュー・ディリジェンス・ガイドライン」を公表したのである。

 もっとも,この中国版は,ルールの厳格さにおいてまだまだ不十分との評価もある。また,履行監視のためのメカニズムがない以上,実効性が伴わないとの正しい指摘もある。しかし,OECDを〈民主主義と市場経済を原則的価値とする欧米中心の金持ちクラブで,「中国の特色ある社会主義」や途上国代表としての立場とは相容れない存在〉として忌避してきたのが中国だ。その中国が,OECDの国際基準を,自ら身の丈に合わせて改訂し,適用するというのだ。こうした君子豹変ぶりは,OECD側にとっては好ましい驚きであろう。しかし,一見変化したかのように見える中国側の姿勢は,「実利上の損得勘定」という行動原理で首尾一貫している。実際的で役に立つものは使う。商売をグローバルに継続するためには,グローバルに広がりつつあるOECDの国際基準を,自社の企業統治(コーポレート・ガバナンス)に組み込むコストを厭わない。「責任ある企業行動」は,消費者保護や環境保全のためだけではなく,自らの死活問題なのだ。だから,我々の「なぜ」という邪推をよそに,中国側は当たり前にRBCに本気である。中国が国際ルールに主体的に向き合う姿勢の真贋を測る上で,こうした機運が,今後,個々の企業によるガイドラインの実施,その実施状況を確認するための制度の整備,さらには,繊維産業など,途上国における労働集約型のサプライチェーンに多くの中国企業が参画する他の業種に広がるかに注目したい。

 筆者は,このセミナーを最期に,OECD日本政府代表部に異動となった。赴任してまもなく,OECD本部のRBC作業部会で久闊を叙した事務局の友人から,S処長が商務部を辞し,上海の企業に転職したとの消息を耳にした。プラタナスの街路樹が色づき始めたパリで,欧米由来の「責任ある企業行動」を中国に導入し,定着させるために傾けたS処長の情熱と蹉跌を思った。

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