世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1341

文通と仲介業:デジタルとアナログの狭間で

安部憲明

(外務省経済局政策課 企画官)

2019.04.22

 ちょうど,旅の楽しみが道程そのものにあるように,文通は相手に会うことが目的ではない。むしろ,会わない方がずっと幸せということもある。誰だって,正直,ペンフレンドと会った刹那,時間と距離に包まれた乳白色の夢から醒めてしまうことが怖いのだ。

 世界経済評論(2019年5/6月号)に「外国人による日本論の味わい」という一文を寄せた。近代日本の黎明期の旅行家イザベラ・バード氏,外交官アーネスト・サトウ氏,小泉八雲氏,ジョン・ダワー氏,そして先日鬼籍に入ったドナルド・キーン氏始め,連綿と,先達の観察や論考が脳裏に浮かぶ。日本人自身が驚嘆する繊細な触角と大胆な筆力に魅せられ,これらの著作を愛蔵する方も多いだろう。拙文の中では,外国人の書いた日本論の3つの側面を玩味したい,と述べた。第1に,日本人にない視点や着想にハッとする気づきの効用,第2に,著者が母国語の概念体系で論じ,それが邦訳されるという往復作業で顕現する翻訳の妙,第3は,読後感を綴るなどした著者とのやりとりである。

 第3の味わいの延長線上に,著者と直接会える縁がたまたまできたとしよう。ここで,文通相手には会わぬと決めている人は躊躇するかもしれない。対面したが最期,「失われてしまう何か」を直感するためだ。

 最近,外国人著者の一人と懇談する幸運に恵まれた。東日本大震災後の日本社会を地道な取材と鮮やかな筆致で描く洞察に目をみはった。読後感を送ったことが契機となり,氏とのやりとりが始まった。ある日,突然,別の近著の邦訳出版にあわせて訪日するので,是非,やりとりの続きを直接話さないかと言う。大きな玉ねぎの下ではなかったけれど,桜の開花宣言と重なる頃に面会を約束した。会ってみると,恐れていたような幻滅や喪失感はなかった。それどころか,相手の年恰好(細身の体躯からほとばしるエネルギーに,文筆家とは,日夜〆切と格闘するアスリートなのだと納得した),相槌(眉間の皺や興が乗った時の早口といったボディ・ランゲージは実に雄弁だ),胸ポケットから取り出した万年筆やノートの小道具(いつの間にか,こちらが取材対象になっていたわけだ),そして,活字からは落とされた挿話の数々から,既に読了した著書の行間がひたひたと埋まっていく気がした。なかでも,現代日本の肖像画を丹念に描く氏の次の問いかけは強く響いた。曰く,日本人ほど「日本とは何か」という問いに執着してやまない国民もない,にもかかわらず,その結論においては意外と淡泊で,自画像の輪郭を永遠にぼやかしているようにすら思える,なぜだろうか。これに続く充実の意見交換の内容は割愛する。かくして著者との初対面の収支は,会う前の心配をよそに大幅黒字を計上して終わった。

 さて,昨今,インターネットの便利さの代償として,文通の手擦れ感,手紙の香りやインクの濃淡,郵便配達夫を待つ間の哀歓が失われたことは確かである。SNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)全盛のご時世,かつての「ペンパル」が切ない思いをした時間や距離に「メル友」たちは決して邪魔されない。そればかりか,相手の顔も人定事項もネットで検索し,恋人の有無ですら割り出せてしまうかもしれない。「約束したのに写真を入れてない 薄いあなたの手紙を裏返すのよ 私」(山口百恵『文通』)といった淡い情緒を含め,不便で迂遠ゆえの文通の価値をかみしめるのは本当に難しくなった。

 文通に限らず,ネット技術や人工知能(AI)は,人間がある価値を創出し,享受する機能を急速に代替し始めている。特に,サービスの提供者と需要者がネットで直接つながれる結果,これまで物理的拠点に従業員が介在し,商売を成り立たせてきた銀行や保険・証券の金融,卸売,不動産や旅行代理店など広義の仲介業は,これからの時代はロボットとの競争だ,と危機感を募らせる。各国の政策当局も,最低所得制度や失業保険の拡充,デジタル化の技術革新に適応できる生涯教育や技能訓練といった対策に余念がない。文通と同様,仲介業の多くも,経済性という絶対律の前に消えゆく運命にあるのかもしれない。

 しかしながら,オオカミが来るぞ―との声に,文通世代はついつい,果たして世の中そうなるだろうか,と考える。時間がかかり費用もかさみ,面倒で,時に身悶えするほど切なくても,目的に向かう行程で,たとえ数値には算出されないが確かに実存するアナログ固有の価値を知るからだ。競馬や株取引で流行りのAI予想なるものは,目的志向的に過ぎて,時に大勝負を打つ舞台装置としてはあまりに味気ないのだ。ちびた赤鉛筆と新聞,タオル鉢巻きの三つ揃えで清めの酒を飲み,予想屋のおやじと直に話して初めて金を賭けようという気になる。デジタル時代において,仲介業や文通が持つ,生身の人が関わるプロセスを重視する情報伝達,科学的には証明も再現もできないヤマ勘,そして,筋書きのないドラマチックな展開,といった価値が適切に測定され,正当に評価されていくことを願う。

 さて,「外国人による日本論の味わい」の4つ目に,著者との対談という楽しみを加えようか迷っている。対面とは,デジタル化に逆行する極めて人間らしい(さらに言えば動物らしい)行為なのだから,ここでの論旨を貫徹すれば,迷わずイエス。しかし,あれだけ充足した先日の対談の後ですら,ためらいを禁じ得ない。というのは,3つの味わいは,外国人のレンズを通じて初めて得られる気づきにせよ,翻訳の妙にせよ,読後感のやりとりにせよ,どうしても,著者と読者の一定の距離の間にみなぎる緊張感からしか生まれてこないように思われるからだ。その意味で,アナログ式の著者との面会もまた,ネットを通じた情報補給とは逆のベクトルにおいて,やはり著者と読者双方の想像力を奪ってしまうのだ。対面もまた,互いの姿や声色を知らないからこそ,思索を螺旋状に深めることが出来るという読書本来の楽しみの邪魔をする赤字要因なのである。どうやら,著者とのやりとりは,文通にとどめておくのが良さそうだ。

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