世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.1065
世界経済評論IMPACT No.1065

日本の基礎研究の東アジア化:なぜ日本の基礎研究は下方に向かうのか?

新井聖子

(東京大学政策ビジョン研究センター 客員研究員)

2018.04.30

 近年日本の国際的な基礎研究の地位の低下が危ぶまれている。実は中でも低下が大きいのは,日本の企業や大学が国際的に強いと言われてきた材料科学,工学,化学などの分野である。一方,韓国,中国ではこれらの分野の基礎研究力が急速に向上している。この日本と中韓の逆転の大きな理由の一つは,日本からこれら東アジア(注)の国に,基礎研究の知識のスピルオーバーが起こっているからである(スピルオーバーとは恩恵や便益が負担していない外部にまで及ぶこと)。

 国際的な知識のスピルオーバーは,通常,言語的,地理的,経済的,政治的,文化的な近接性が高いほど大きい。東アジアの国どうしはもともと近接性が高いが,それとともに,特に1990年代以降日本政府の大学院生倍増計画,ポスドク(博士号取得後の若手研究者)政策,留学生政策などの大学政策や科学技術政策をきっかけにして,東アジアから日本に来る留学生やポスドクがバランスを失して急増した。そして,これら留学生等を媒体として,日本から他の東アジアの国へ基礎研究知識のスピルオーバーが,大量かつ急激に起こるようになった。

 外国人ポスドクは90年代後半から急増したが,その理由は1996年からの「ポスドク等1万人支援計画」に外国人ポスドクも含まれ,政府の支援が急増したことが大きい。急に支援数が大きく増えても,欧米先進国からの応募がさほど増えなかったことから,政府の数値目標達成のため,結果的に中韓を中心としたアジアからのポスドクの採用数を大幅に増やすこととなった。

 また,2000年代に入り留学生が急増し始めたが,その主な理由の1つは,1990年代に推進された大学院生倍増計画が達成された直後くらいから,逆に日本人の現役学生の大学院進学志望者が減り始めたにもかかわらず,政府が大学院生倍増計画を修正しなかったため,大学が留学生を大学院生の定員のギャップの穴埋めに入学させたことが大きい。日本では留学生中に東アジア出身者の占める割合が大変高いが,その理由は,大学の教員が英語で教えられない事情から,入学審査で日本語試験を課すため,言語的に東アジアの学生に有利になることが大きい。このため,2000年代,全留学生に中韓からの留学生が占める割合は4分の3で,台湾も含めると8割であり,彼らが留学生の大半を占めていた。ただし,2010年以降は他のアジア諸国からの留学生数が急増したため,相対的に東アジアの割合が減ってきており,東南アジア化・南アジア化も進んできている。

 1990年代以降の韓国,そして2000年代以降の中国は基礎研究力や技術力を急速に向上させたが,この要因として,よく中韓の政府予算の大幅な増額が指摘される。確かに政府予算の増額は重要であるが,いくら予算や人を増やしても,一国内で研究をしているだけでは,向上の速度は極めて限られている。明治期の日本もそうであったが,後進国が短期間で基礎研究力の向上を達成し,世界の最先端にキャッチ・アップするには,留学生等の人を媒体とした先進国からの知識の導入が最も有効で,不可欠である。

 東アジアの企業は,日本からの知識のスピルオーバーが寄与したこともあり,急速に技術力を高めることができたが,その結果,日本企業と同じ技術分野で激しい競争を繰り広げるようになった。このことは,日本のエレクトロニクス産業などのハイテク企業の衰退や世界市場からの撤退を招いたが,これらの企業が利益の悪化から研究開発投資を減らし,研究者や技術者の新規採用を減らすようになったため,日本の大学の関連分野の研究の劣化へとつながった。

 こうした基礎研究の東アジア化については,世界の国や地域によって違いがあり,たとえば留学生数を比較してみると,高等教育機関にアジア人の占める割合は,おおよそ日本が9割,米国が6割,欧州が3割で大きな差がある。東アジア化は,日本では90年代後半から急速に進んだが,米国では2000年代後半ごろからである。欧州ではまだ東アジア化はあまり進んでいないが,近年中国及びインドからの留学生が急増しているので,今後東アジア化・南アジア化が急速に進む可能性がある。

 ところで,日本の東アジア化による基礎研究知識のスピルオーバーは,前述のように,日本の政策をきっかけに引き起こされた面が大きいが,現在の政策はどうであろうか。今日の政府の施策をみても,海外から日本に来る留学生や研究者には手厚いが,日本から海外に出る者には冷たく,支援の予算も格段に少ない。

 たとえば,文部科学省の2016年度予算をみると,日本人の海外留学支援は約68億円であるが,日本の高等教育機関への留学生受け入れのための支援の総額は3.5倍以上の約245億円である。また,日本学術振興会(JSPS)が日本人ポスドクを海外に派遣する支援は2016年度約20億円(支援数約430人)であるのに対し,日本に招聘する外国人ポスドクの予算は約37億円(同約708人)で,その差は2倍近くある。

 科学技術振興機構(JST)は科学技術分野の国際交流を目的に,特に中国を中心としたアジアの学生や教員を日本に招く事業として,2014年度に「さくらサイエンスプラン」を開始した。この事業の予算は,2014年度は8億円(招へい人数2945人)だったが,2017年度は18.7億円(招へい予定人数5500人)と3年間で倍増している。日本の財政が非常に厳しい中で,この予算の増額は突出して増えている状況である。

 また,日本人の若手研究者は海外に長期間出たがらなくなっているが,この理由は単に若者がひ弱になったということではなく,実は政策や大学の問題が背後にあるとみられる。筆者が若手研究者に行ったアンケートによれば,若手が海外に出ない最大の理由は「日本を長期間離れると就職が不利になるから」で,回答者全体の3分の2がこの理由を挙げている。この背景には,日本の大学の若手ポストに任期付が多く,情実人事・派閥人事が多いため,若手研究者は日本で常にポストを探していなければならない事情がある。西ヨーロッパを含めて諸外国の大学は,海外経験を近年一層重視しており,若手研究者は就職を有利にするためにますます海外に修行に出るようになっているが,日本はそれと反対の状況である。

 これらのようなことから,現在においても,海外から日本への知識の流入より,日本から海外への知識の流出の方が大きく上回る状況が続いており,日本の基礎研究力の急速な低下を招いている。では,日本はどうすればこの状況を逆向きに転換することができるのか。

 今後の政府の政策が向かうべき方向としては,まず日本の研究者を世界の基礎研究の中心である国々に向かわせ,彼らとの協力関係を強めることによって,量より質の向上,生産性の向上を図ることである。このための具体的な施策としては,日本人の若手が欧米に長期間行って関係を強めるための支援の大幅な拡充が有効である(海外の優秀な研究者を日本に招こうとしても,現状としてなかなか長期間滞在してもらうことが難しいため,たとえ政府の支援を大幅に増やしても,あまり効果は期待できない)。

 また,それとあわせて,日本の大学が海外に出る優秀な日本人研究者を積極的に採用すること,そして海外の研究者が魅力を感じるような国際的なベスト・プラクティスの人事や経営に向かうよう改革していくことが重要である。

 日本が途上国に基礎研究面の援助を行うことは,先進国としての義務といえるが,現在のような先細りの援助ではなく,援助しつつも自国の力を一層高められるようにするべきである。そうしてこそ,日本は他の東アジア諸国とも,互いに尊敬できる真の友好関係を築けるようになる。

 現状の政策のままでは,日本の将来を担う若手研究者が育成されず,基礎研究やハイテク産業の劣化がますます進むことは必至である。基礎研究の問題は大学のみならず,産業,経済,国防などにも大きく影響することであり,今後早急に日本の政府の大きな政策の転換と,関係機関の対応が求められる。

[注]
  •  本稿においては,「東アジア」とは日本,中国,韓国,台湾を含む地域を指すこととする。ただし,日本政府及びその関係機関,また各国政府の公表データにおいて,台湾のデータを公表していないことや,中国に含めていることが多いため,本稿では中韓に焦点を当てる。

 

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(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article1065.html)

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