世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.899
世界経済評論IMPACT No.899

“スロー・トレード”と“ディーセント・ワーク”:世界貿易の減速を克服する「適正な労働」

西口清勝

(立命館大学 名誉教授)

2017.08.28

 2008年のグローバル経済危機を経て,2012年以降これまで5年間の世界貿易の減速には顕著なものがあり,この現象は内外の注目を集めてきている。今年の『通商白書』[2017,15-18頁]も,2016年度の世界の財貿易額は31兆9128億ドルで,対前年比-3.8%と2年連続で減少している。世界貿易額は2008年以前には毎年対前年比で+10%を越える成長を続けていた。2008年のグローバル経済危機により世界の貿易額は大きく落ち込んだ反動で一時的に高い伸び率を見せたものの,2012年以降その伸び率は大きく鈍化し2015年度には遂にマイナスに転化したのみならず,世界の実質GDPの成長率をも下回る状態が続いている,と述べている。

 この世界貿易の減速(global trade slowdown)を初めて“スロー・トレード(slow trade)”と呼んだのは,IMFのCristina Constantinescuたち[2014]であった。彼らは,世界の貿易量の伸び率が世界の実質GDPの成長率を下回った—それは過去40年間で初めてのことである—ことをもって“スロー・トレード”と名付けたのみならず,その後の議論つまり世界貿易の減速の原因に関する論争の枠組みもまた提起して研究を行った。循環要因(cyclical factors)説と構造要因(structural factors)説とがそれである。『世界貿易の減速:新常態か?』を編集したBernard Hoekman [2015 chap.1] もまたこの両説の代表的な論者の論考を主軸にしている。日本銀行調査部の高富康介たちの研究[2016]も両説の検討を主軸にしているが,彼らの場合は世界貿易の減速の要因分解を行い両者つまり循環要因と構造要因の寄与度を定量分析—前者が約3割,後者が約7割—したことが特徴となっている(16-18頁)。

 小論の目的は,この世界貿易の減速の原因を解明することを試み,世界貿易の減速を克服するためにILOが1999年の第87回総会で提起しその実現を目指している全ての人に“ディーセント・ワーク(decent work)”つまり「働きがいのある人間らしい適正な労働」を,という視角から接近することにある。

 “スロー・トレード”論の嚆矢となったConstantinescuたちにしたがって,まず循環要因説と構造要因説の内容を説明する必要があろう。彼らによれば,世界貿易を減速させた要因として,グローバル危機後の需給ギャップの存在や2010年代のユーロ危機あるいは中国経済の「新常態」への移行による成長率の漸減等を挙げるのが循環要因説であり,他方グローバル経済危機後の世界の実質GDP(所得)の成長率の低下や世界貿易の世界所得に対する弾力性が低下してきていることに着目するのが構造要因説である,という。彼らの主張点は次の2つである。第1点は,世界貿易の所得弾力性は1990年代に2.2と高かったが21世紀に入ると1.3へと低下してきている。こうした長期的な要因(構造的要因)の方が短期的な要因(循環的要因)よりも大きいと判断できると構造要因説を支持していることである。第2点は,“スロー・トレード”をGVC(global value chain,国際価値連鎖)と結び付けて考察していることである。1990年代にGVCが急速かつ大規模に展開されその結果世界貿易とりわけ部品・中間財のそれが急増した。しかし,21世紀に入ると中国がそれまで大量に輸入していた部品・中間財を国内で生産するようになり(輸入代替),また米国の多国籍企業による生産の再配置のモウメンタムが低下した。GVCの展開が成熟してきたことが世界貿易の減速に大きく影響しているというのである。

 こうした構造要因説を支持する立場からは,中国と米国の2国以外例えばEU等がGVCを展開でもしない限り“スロー・トレード”は当面回復する可能性は低く持続するという結論になる。事実,日本銀行調査部の高畠庸介ら構造要因が大きな比重を占めるという研究も同じ結論を導き出している。

 我々は,しかしながら,こうした主張と結論とは異なる見解があることも知っている。UNCTAD[2016]はその代表的なものであろう。UNCTADもまた1990年代以降の世界貿易の急速な伸び率はGVCの進展と密接に結びついていることを指摘している。しかし,GVCの進展によりそれに参入した新興国や途上国では輸出の高い伸び(growth of exports, “trading more”)と付加価値の低い伸び(slow growth of value-added, “earning less”)が併存していることもまた指摘している(p.21)。つまり,世界の製造品輸出においてシェアを伸ばした諸国が,世界の平均よりも低い賃金のシェアしか受け取っていない。その背後には,コストダウンによる輸出競争力の強化が賃金水準を抑制し,それが国内需要の伸びを抑制するという連鎖があり,GVCの進展と並行して世界の労働分配率が大きく低下しているのである(p.23)。労働分配率の改善がない限り国内の消費需要が不足し—投資は惹起されず—世界貿易の減速を克服すること困難である。この連鎖を断ち切り労働分配率の改善への道標となるのがILOのいう“全ての人にディーセント・ワークを実現する”という取り組みであろう。この取り組みの下でこそ,“貿易は成長のエンジン”になることができよう。

[参考文献]
  • 1.Constantinescu, Cristina, Aadita Matto, and Michele Ruta [2014], “Slow Trade: Part of Global Trade Slowdown since the crisis has been driven by structural, not cyclical , factors”, IMF, Finance & Development, December, 2014.
  • 2.Hoekman, Bernard[2015], “Trade and growth – end of an era ?”, in The Global Trade Slowdown: A New Mormal ?, VoxEU.org e Book, chapter 1.
  • 3.ILO[2016], Decent Work in Global Supply Chain, International Labour Conference, 105th Session, 2016, Report Ⅳ, ILO, Geneva.
  • 4.UNCTAD[2016], Trade and Development Report, 2016: Structural transformation for inclusive and sustained growth, United Nations, New York and Geneva.
  • 5.高富康介・中島上智・森知子・大山慎介[2016],「スロー・トレード:世界貿易量の伸び率鈍化」,BOJ, Reports & Research Papers, 2016年10月。
  • 6.経済産業省[2017],『通商白書』(2017)
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article899.html)

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