世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
「鬱」の中国:パラダイムシフトがもたらしているもの
(多摩大学 客員教授)
2024.08.26
昨年,6月,国家統計局は,16-24歳の年齢層の失業率の公表を突然中止した。この年代の失業率が20%を超えたことが背景にあるようだ。国家統計局は,学齢期の年代でもあるこの層の失業率には,学生も含まれているので,これを改めて調整するためだと,苦しい説明をした。統計が再び公表されたのが,昨年の12月だった。失業率は15%まで低下した。ただ,大卒者の就職は依然厳しい。トップ大学である精華大学の場合,今年の卒業生の80%が修士課程に進むか,留学を希望している。その他の一流大学でもこの比率は70%を超えている。中国科学院大学の場合,90%が進学を予定している。
5月7日,人材斡旋会社智聯招聘が発表した「2024年版 大学生の就職力に関する調査報告書」によると,修士・博士卒の今年の内定取得率は33.2%で,昨年より17ポイント低下し,学部卒の内定取得率43.9%をも下回った。また,就職先を見ると,大企業が減少し,小規模企業,零細企業への就職が増えている。
背景にあるのは,求職者と採用側のミスマッチが拡大していることと,企業経営が厳しさを増していることだと思う。今,多くの企業が求めているのはホワイトカラーではなく,ブルーカラーである。現場のエンジニアの場合,需要は供給の1.5倍だそうだ。「産業昇級」が叫ばれるなか,多くの企業がこうした人材を求めるようになっており,人手不足も深刻化している。このため,ブルーカラーとホワイトカラーの給与格差は縮小する傾向にある。10年前,両者の給与格差は月額4千元近くあったが,昨年末には約2千元まで縮まった。
また,企業の新卒者の求人数は,昨年に比べ3割近く減少したとの報告もある。大手IT企業はこの数年で10%以上の従業員を削減した。不動産開発業界は言うに及ばない。そして建設作業に従事する農民工の数はこの3年間で1千万人近く減少した。比較的安定した業種である銀行も,昨年の従業員増加数は上場34行全体でわずか7千人に留まった。賃金カットを行った銀行は15行に上る。それだけではない,相次ぐ利下げにより業務純益が圧迫されつつある銀行は,昨年支給したボーナスの一部の返却を求めるという事態も起こっている。
幸い就職できたとしても,今度は苛烈な勤務が待っている。ひところ「996」という言葉が流行った。朝の9時から夜の9時まで週6日働くという,IT業界の厳しい労務環境を現した言葉であり,政府は,この働き方は労働法違反であると断じた。しかし,この風潮は収まる気配がない。EV製造事業に乗り出し,わずか2年で開発を完了させた小米の雷軍総裁の働き方は「7117」である。朝7時から夜11時まで,週7日働くというものだ。業界の競争は,経済が伸び悩むなかで,ますます厳しさを増している。労働法違反という政府のご宣託はどこへやら,今では「896」が常態化しつつあるという。朝8時から夜の9時まで週6日だ。この苛烈な働き方で話題になったのが,IT大手百度の副総裁璩静女士がこの5月,TikTokの中国版抖音に掲載したメッセージだった。曰く,「従業員の首なんかこの業界ではいつでも切れる。50日間連続出張でもやってごらんなさい。あなた方の個人生活なんか会社には関係ない。それに私はあなたたちの母親でもなんでもない。とにかく結果を出しなさい」。この発言は大いに批判され,璩静女士は辞任に追い込まれた。
しかし,これだけ働いても,年末には「末位淘汰」が待ち構えている。人事考課が下位10%であった場合,労働契約は更新されないというルールだ。仮に会社で生き残ったとして次に待ち構えているのが「35歳ルール」だ。これが横行しているのは,アリババ,拼多多,京東などのテック企業である。過酷な業務に耐えられるのは若い人材。30代の半ばともなれば,無理も次第に利かなくなる。さらにこの年代になると結婚し,子供もいることが多く,産休,育休も必要になる。「896」の勤務はきつい。また,この年代は若者に比べれば給与が高い。このため,35歳になると「肩叩き」が始まると言う。公務員の中途採用も35歳までである。子育ても一段落した女性が再就職するのもハードルが高い。
これに加え,持続的な経済成長率の低下,そして不動産価格の下落がある。将来に希望が持てない状況が生まれている。不動産価格の下落は,負の資産効果をもたらすだけでなく,人生の大きな目標だった持ち家の購入意欲にも冷や水を浴びせる。
英国のケンブリッジ大学,LSE,SOASが共同で作成している中国の社会調査「China Quarterly」誌に依れば,豊かになれない理由として,10年前に最も多かったのが,能力不足と努力不足だった。いずれも60%近い。しかし,2023年にはこれらが30%台に低下する一方,機会の不平等と不公正な社会システムを挙げる回答者が30%台に増加した。また,5年前と比べて,今の家族の状態,経済状態などが良くなっている,あるいはそれなりに良くなっていると答えた割合は,10年前は80~90%台だったが,2023年には,50%を割り込んだ。とくに年収5万元以下の回答者の場合,10年前は70%近くが良くなっているとしたが,2023年には20%台へと大きく落ち込んだ。
こうした変化が如実に表れているのが,若年層の自殺と鬱病患者の増加である。まず,自殺についてみると,2002年から2008年にかけて自殺率は急速に低下している。しかしリーマンショック以降反転上昇に転じ,2010年以降はほぼ横ばいとなっている。農村部の農民の自殺率は,習近平政権の農村・農民・農業重視策のお陰かどうか,趨勢的に低下している。ところが5-14歳の若年層についてみれば,コロナ禍の中,急増している。コロナ禍の影響もあろうが,根本にあるのは学習の負担増と将来不安ではないだろうか。2022年に習近平政権が塾禁止令を出した理由もこのあたりにありそうだ。昨年の自殺者総数は28万人だったが,その40%が鬱病を患っていたという。
今年4月に公表された「国民抑鬱症青書」によれば,中国の鬱病・不安障害患者数は9,500万人に上るという(鬱病54百万人,不安障害41百万人)。世界最大規模である。中国は鬱病大国でもあるわけだ。患者の65%が24歳以下である。職業別で見れば,IT関連が最も多く20%超となっている。次が教育・塾関連で13%。いずれも,2021年から22年にかけて厳しい規制を受けた業種である。テック業界の勤務の厳しさは前述の通りだ。男女比で見れば女性が68%を占める。出産,子育て,教育に加え働くことのストレスが重くのしかかっているためだろう。しかも,患者数は年間2%台後半の勢いで増加している。
課題の一つは,鬱病・不安障害患者向けの治療機関や専門医師が圧倒的に少ないことである。このため,患者の92%がインターネット問診サービスを受けているが,病院に行くことは殆どない。治療費が高額という理由もあるが,この問題を党・政府が重視してこなかったという面もあるのではないか。心の病は確かに為政者の注意を引きにくい。ちなみに,鬱病・不安障害の症状の一つが不眠症と言われるが,いわゆる「睡眠経済」も,患者数の増加に伴い拡大を続けている。ベッド,枕,アイマスク,安眠サプリ・飲料,睡眠関連の測定機器,空気清浄器,呼吸器といった商品である。ちなみに,マイナスイオン効果のある空気清浄機には安眠効果のあることが確認されている。これらの市場規模は2023年で約5千億元,年率10%を超える勢いで拡大している。
7月に開催された三中全会では,更なる構造改革の深化が謳われた。一言で言えば,ハイパーファイナンスによる過剰投資から技術主導へと経済成長のエンジンを切り替えるというものだ。ただし,これは一朝一夕に実現するものではない。経済・産業の潮目が変わりつつあるのは確かだが,それは,大きな不安と痛みを伴うものである。笛吹けど消費が盛り上がらない原因のひとつもこの辺にありそうだ。
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