世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3450
世界経済評論IMPACT No.3450

中国は4兆元以上の刺激策が必要:リチャード・クー氏のバランスシート不況分析

小原篤次

(神戸大学大学院経済学研究科 研究員・国際貿易投資研究所 客員研究員)

2024.06.17

 今年,古希を迎えるエコノミストが,最近内外メディアに頻出する。彼は中国に警鐘を鳴らす。野村総合研究所のリチャード・クーだ。野村総研HPによれば,1954年神戸市生まれ,1981年ジョンスホプキンス大学経済学博士課程修了。同年,ニューヨーク連銀入行後,1984年野村総研入社,日経グループのエコノミスト・ランキングで1995年から6年連続で第1位。1990年代を代表するマーケット・エコノミストである。機関投資家から選ばれた人気ゆえ,転職の誘いもあっただろうが,同じ職場で活躍する。日本ではクーより若いエコノミストも育っている。彼の強みは海外への情報発信である。

 5月の香港紙と昨年の東洋経済から,クーの主張を紹介する。「習近平に言わせれば構造改革なのかもしれないが,不動産をはじめさまざまな規制を強化して,本当に将来は大丈夫なのかと,学者,経済界が危機感を持っている」(東洋経済)。だが,彼らは,ほんの少しの金融・財政刺激策を講じればすべてうまくいくと主張する。これらは,「バランスシート不況」を経験した30年前に日本で聞いた典型的な議論である。一方,米国も2008年の金融危機後の景気後退の初期にはそうした議論をしたが,連邦準備制度理事会(FRB)議長のベン・S・バーナンキがクーの本を読んで,「バランスシート不況」と認識すると,金融政策に加えて,彼は「財政の崖」という有名なフレーズで財政刺激策を求めたという。

 クーは,中国のバランスシート不況は資産価格が下がるときではなく,「人々がそう思ったときに始まる」とする。財政刺激策の規模については大きな刺激策を求めている。中国は世界金融危機の直後,いち早く4兆元の景気刺激策を打ち上げ,景気回復後,採算性が低いプロジェクトを産み出し,シャドーバンキング問題が明らかになった(小原・神宮ほか2019)。このため,クーは「景気刺激策を試みたが,問題を引き起こしたので,同じ過ちを繰り返したくない」と中国で懐疑的な人たちを表現する。「中国経済が今や非常に大きくなっていることを考えると,4兆元以上が必要」と語り,「なぜ必要なのかを国民に説明する必要がある」とする。

 不動産・株価など資産価値が急落し民間企業のバランスシートが悪化すると,民間企業は設備投資よりも債務圧縮を優先し,結果的に中央銀行による金融緩和の効果が弱まる。「バランスシート不況」は,こうした状態を指している。

 クーは危機対応として財政刺激策を訴えてきた。1929年の世界恐慌の後で支持されたクラシックな政策である。ケインジアン的な政策のため,主流派の経済学者が提案しにくい政策である。MITやオックスフォード,ケンブリッジなどノーベル経済学賞を輩出する,世界ランキング上位の米英大学院で育ったような主流派の経済学者は,欧米,アジアを問わず,1970年代以降,財政の効果(ケインズ的な政策)に懐疑的で,金融の効果(マネタリスト的な政策)に好意的である。経済理論であり,半世紀以上が経過し,経済思想とも言える。

 対してクーは,政治の中心ワシントンDCで,大使館や戦略系シンクタンクに囲まれたジョンスホプキンス大学を選んだ。Times Higher Educationの経営・経済学ランキングで72位,中国の清華大学,香港大学,東京大学より評価が低い。同大学で国際金融論を担当する教員は卒業生の集合写真を見ながら「小原先生,今年は何人卒業生を政府や国際機関に送り出しましたかな?」である。

 クーは,経済学の学界では重視されないマクロ経済分析を実務ゆえに継続できた。「バランスシート不況」との関係で,ケインジアンの「合成の誤謬」が彼の脳裏にあるだろう。民間企業の債務削減は一見,ミクロの視点では合理的な行動であっても,それが合成されたマクロでは必ずしも好ましくない結果が生じてしまう。筋金入りのケインジアンなのか,需要不足への即効性がある政策と割り切っているのか,財政政策は政治家,当局者,メディアが好むことから,彼らとの会話を通じて着想したのか。このあたりは「クーの謎」としておく。

 中国経済論の丸川は,中国の経済発展を過去の日本,韓国,台湾などがたどってきた道によく似ているため,中国も「中所得国の罠」にははまらず,高所得国にあがっていくだろうと予測している(丸川2021,丸川ほか2022)。

 クーなら丸川に対して,高所得国への軌道に戻すためにも,いまは「財政」と連呼するだろう。クーは危機時に社会から必要とされる貴重なエコノミストなのだ。

 「バランスシート不況」。つまりバブル崩壊・長期不況の日本の経験・教訓は欧米に次いで中国でも生かされる可能性があると,筆者も考えている。クーとの違いは国民への説明の実現に懐疑的なことである。

[参考文献]
  • 「[特別対談]リチャード・クー/津上俊哉」『週刊東洋経済』(2023年11月18日)
  • 野村総合研究所未来創発センター(2024年6月11日アクセス)
  • 小原篤次・神宮健・伊藤博・門闖(2019)『中国の金融経済を学ぶ』ミネルヴァ書房。
  • 丸川知雄(2021)『現代中国経済(新版)』有斐閣。
  • 丸川知雄・徐一睿・穆尭芊(2022)『高所得時代の中国経済を読み解く』東京大学出版会。
  • Frank Chen(2024年5月20日) “What must China do to avoid a Japan-type recession? Economist Richard Koo adds up why ‘the Chinese situation is far more serious’,” South China Morning Post(scmp.com).
  • Times Higher Education, “World University Rankings 2024 by subject: business and economics”(2024年6月11日アクセス)
  • Richard C. Koo (2018) The Other Half of Macroeconomics and the Fate of Globalization, John Wiley & Sons, Ltd.
(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3450.html)

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