世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)

No.3090
世界経済評論IMPACT No.3090

「他者に対するロシア」としてのアイデンティティ

鈴木康二

(元立命館アジア太平洋大学 教授)

2023.08.28

 ウクライナ侵攻・クリミア併合をしたロシアの意図を知るべく東大准教授・乗松享平の『ロシアあるいは対立の亡霊 「第二世界」のポストモダン』(2015年)と,乗松訳のトルストイ『五月のセヴァストポリ』を読んだ。クリミア戦争でセヴァストポリ要塞内にいるロシア人将校達が,要塞の壁近くから聞こえる両軍入り混じる戦いの喚声を聴く。ウラーともアラーとも聞こえる。ウラーはロシア語Урааааа!!なのかフランス語Hourra!なのか,アラビア語のアラーAllāh!なのかが判らない,とトルストイは書く。アルジェリア兵を交えたフランス軍が要塞を守るロシア軍と戦っている。

 『ロシアあるいは対立の亡霊』には,「ロシア人の集団的アイデンティティは他者排除に基づく「消極的アイデンティティ」だと,レフ・グトコフは言った」とある。ロシアのウクライナ侵攻の説明になる。乗松はロシアのポストモダンをリオタールの言う「大きな物語の終わり」として捉える。西側資本主義国家体制の国々という第一世界に対抗し,ソ連主導の社会主義国家体制の国々という第二世界は,1991年ソ連崩壊で崩れ去った。しかし,「第二世界という「大きな物語」の根強さは,ポジティブな理念の成熟よりネガティブな拒絶と対立が発達した」と乗松は言う。「権力というXを標的として「Xにとっての他者」であることにソ連の知識人はアイデンティティを見出してきた。Xの存在が前提なのでXに依存している」。「消極的アイデンティティは,内部に積極的な統合原理を欠く。ロシア近代史は,西欧列強に遅れて近代化を開始し,社会主義陣営を率いて資本主義世界と対峙する中で,西欧・西側というXを参照点に自己規定してきた」。

 「後期ソ連では,公式メディアの文言から政治的行事までが建前化し,形式的な儀式と化した。意味を失ったそれら規範を唾棄せず,日々パフォーマンティブに読み替えることに自由な創造性が発揮された。規範は創造性と戯れ,自由の機会となった」と,アレクセイ・ユルチュックは2006年に言った。乗松は「東浩紀は,シニシズムやアイロニーをもって日本社会を特徴づけており,…社会規範を変えるのでなく受け入れ戯れる,ソ連最後の世代と同じことは日本でも実践された」と書く。

 「ロシアのポストモダンは,「私はXにとって他者である」という物語を,Xと私-第一世界と第二世界が通じ合っているという事態によって脅かす」と乗松は書くが,間違っている。「私はXにとって他者である」という物語は,Xは第一世界でもあり第二世界でもあり,夫々私は他者だ,と言う。大きな物語の終わりがポストモダンだから,大きな物語としての第一世界も第二世界もポストモダンの下では存在していない。にもかかわらず,私は権力にとっての他者だ,私は第二世界にとっての他者だ,と言って,自由を享受している振りをする,ロシア知識人はポストモダン人ではない,と思う。「ロシアは西側資本主義国にとっての他者である」として,ウクライナ侵攻をするプーチンとプーチンを支持するロシア国民は,ポストモダン人ではない,近代人だ。

 ロバート・コヘインは『覇権後の国際政治経済学』で,自己と相手の利害関係には,①道具的相互依存,②状況的相互依存,③共感的相互依存がある,と言う。反ロシア的な政権がウクライナに生まれたことで,ロシアの安全保障が脅かされる,との考えは,①道具的相互依存だ。相手が自分に影響を及ぼす行動をとるので,相手の厚生を改悪させるとの利己主義だ。②状況的相互依存なら,相手の行動如何に関わらず,相手の厚生の改善が自分の厚生を改悪させる為,相手の厚生を改悪させようとの関心を持つ。「他者に対するロシア」としてのアイデンティティは,相手と自分の厚生如何に関わらず,自分は相手がいることで存在しているとの考えだから,利害関係を無視した国益論だ。ウクライナのネオナチ政権を倒すべくウクライナ侵攻をしているとのプーチンの発言は,「他者に対するロシア」とのアイデンティティを,①道具的相互依存の利害関係で国民に納得させようとするものだ。ウクライナ政権はネオナチでは無いとの,自らの物質的幸福や安全保障と無関係でも相手の厚生に関心を持つ,③共感的相互依存の考えがロシア国民に広がるのが一解決策になる。「私は権力にとって他者である」から始めるのが近道かも知れない。

 「私はXにとって他者である」との考えにしがみつくロシア人に,そのような二項対立によるアイデンティティの持ち方はポストモダンにおいては時代遅れだ,と判って貰う必要がある。ロシアは食糧・武器援助をして侵攻反対の側に回らないようにとアフリカ諸国に働き掛けているのも二項対立の考えによる。XであるG7は自らを第一世界と見る演技を止めて,個人セクターと市民社会セクターが作った国富が,戦争によりロシアでもウクライナでもそして世界でも,国家セクターに奪われているとの誠実な演技をすればよい。トルストイは,両軍が戦死体を引き揚げる為の休戦中にフランス兵がロシア兵にトルコ煙草をあげてロシア煙草は旨いかと訊く話を書いている。ロシア兵がロシア煙草も旨いと冗談交じりに言うと周りの兵士達が一斉に笑う。確かに誠実な演技だ。

(URL:http://www.world-economic-review.jp/impact/article3090.html)

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