世界経済評論IMPACT(世界経済評論インパクト)
バイデン政権の産業政策とWTO
(桜美林大学 名誉教授)
2023.02.20
CHIPS法の成立とWTOの補助金規制
バイデン大統領が昨年8月9日に署名したCHIPS and Science Act of 2022(以下,CHIPS法,注1)は,5年間で527億ドル(1ドル130円換算で6.9兆円)の巨額政府補助金と25%の税額控除によって,米国の先端半導体の開発と生産を推進する法律である。法律制定を待ち構えていた内外の企業は,相次いで大規模な投資計画を発表した。ジェトロの集計(注2)によると,2022年だけでインテル,IBM,マイクロンなど米国企業のほか,台湾の積体電路製造(TSMC),韓国のサムスン,日本の住友化学など11社が,今後アリゾナ州など5州で工場建設など総額2,100億ドル(同27.3兆円)超の投資を行うという。
昨年10月,IBMの投資計画発表に招かれたバイデン大統領は,「CHIPS法によって,半導体のサプライチェーンは米国で始まり,米国で完結することも冗談ではなくなる」と述べた。また,インテルのグルシンガーCEOは,同月,「CHIPS法は戦後で最も重要な産業政策に関する法律だ」と高く評価している。
CHIPS法成立後,所管する商務省はCHIPSプログラム全体の実施戦略を作成し,実施機関として国立標準技術研究所(NIST)にCHIPSプログラム室とCHIPS研究開発室を新設した。両室は支援対象プロジェクトの選定,補助金申請企業の審査から交付,受給後の履行状況チェックなどを担当し,今年2月までには補助金申請に関するガイドラインを発表することになっている(注3)。
このように,CHIPS法は特に先端半導体産業の育成と発展を目指す米国政府の中長期にわたる産業政策であり,1987年に設立された官民共同のSEMATECH(注4)とは比較にならない大規模なものである。しかし,各国政府が国内産業に与える補助金は,ダンピング輸出と同様に貿易を歪曲する効果を持つため,WTOは補助金付きの輸入品に相殺関税を課し,貿易歪曲効果を是正する措置の実施を輸入国に認めている。とりわけ米国は,WTO加盟国の中では相殺関税およびアンチダンピング税を最も積極的に課している国である。
また,キャサリン・タイ通商代表は,2021年6月,2000年代初頭から続いてきたエアバスとボーイングを巡る政府補助金紛争を一時的に解決(双方の対抗措置の5年間停止)し,その成果を誇っているだけに,政府の補助金問題を熟知しているはずである。経済産業省の『2022年版不公正貿易報告書』(330ページ)によれば,大型民間航空機の生産・開発のための補助金については,①「市場条件のもと」,「オープンで透明性のあるプロセスを通じて」(補助金を)交付することは妨げられない,②「相手側に悪影響を及ぼすような方法での支援は行わない」という,WTOの補助金規律を意識した合意がなされている。
しかし,こうした合意がCHIPS法による補助金にも適用される保障はない。WTOルールでは禁止はされていないが,他のWTO加盟国に悪影響を及ぼす「イエロー」の補助金に対しては,他のWTO加盟国は紛争解決手続きにより補助金の撤回や是正を相手国に求めるか,一方的に相殺関税を課すかのいずれかを選択できる。この点について,タイ通商代表は米国の考えを明らかにしていない。タイ代表が明らかにしているのは,米国が産業政策を採用した背景だけである。
産業政策採用の背景と目的
タイ通商代表が述べた産業政策採用の背景は次のとおりである(注5)。米国は約40年間FTA(自由貿易協定)政策を進めてきたが,一部の産業部門はFTAの恩恵を受けたものの,富の集中,オフショアリング,一部製造業地域の衰退といった問題が起こった。また,中国の不透明な国家主導の産業支配政策は,過去20年間,伝統的な貿易手段と多国間システムでは対処できない問題を生み,米国の労働者と産業から生き残る道さえ奪い,多くの国民は貿易とグローバリゼーションを敵視するようになった。こうした問題を再調整できるのが産業政策であり,いまや産業政策と貿易政策を相互補完的に進めることが必要となっている。
タイ代表はこれ以上詳しく産業政策について説明していないが,国家経済会議のブライアン・ディーズ委員長は2022年10月13日,オハイオ州クリーブランド市のシティクラブで行った演説でバイデン政権の産業政策を総合的に説明している(注6)。この演説でディーズ委員長はIndustrial Policyとは言わず,一貫してModern American Industrial Strategy(現代米国産業戦略)と呼んでいるが,意味するところは産業政策と同義である。ディーズ委員長の講演のポイントは次のようなものだが,この講演録を読むと,CHIPS法で初めて米国は産業政策をとったと言われているが,バイデン政権は政権発足以降,一貫して産業政策を重視していることがわかる。
- 1.米国の核となる経済および国家安全保障を達成するには,民間投資と公的投資が協調して戦略的投資を実行することが必須である。政府が産業上の勝者,敗者を決めるのではなく,米国のボトムラインを強化し,米国の全地域,全コミュニティに投資を進め,同時に生産性の向上と技術革新の元となる働く者に対する投資を推進する。
- 2.バイデン政権が,これまで議会と協調して制定した4本の基本法(①米国救済計画法,②超党派インフラ投資法,③CHIPS法,④地球温暖化対策,医療制度・税制改革が中心となるインフレ削減法)による今後10年間の総投資額は3.5兆ドルに達し,現代米国産業戦略の基盤となる。
- 3.現代米国産業戦略は,①新鮮なアプローチ,②迅速性とスケールを重視し,さらに③米国の同盟国・パートナー国と緊密に連携をとりながら実施する。
The Economist誌の強烈な米国批判
1980年代に日本の産業政策を非難していた米国が,本格的な産業政策に乗り出したことは驚きでもある。また,補助金と税制措置によって国内産業を強化するバイデン政権の保護主義政策は,戦略的競争相手とする中国に勝つためにも妥当な政策と考えられているのか,共和党からも大きな反対は出ていない。この点も興味深い。今年1月16日付のニューヨーク・タイムズは,「米国は半導体戦争に勝たねばならない」と題した長文の論考を掲載した。著者は,オバマ政権で財務長官顧問を務めたスティーブン・ラトナーである(注7)。
しかし,英国のThe Economistは,今年1月14日号で「ゼロサム:グローバリゼーションを脅かす破壊的論理」(9~10ページ)と題した次のような要旨の記事を掲げ,バイデン政権に警鐘を鳴らしている。“各国は環境産業や製造業誘致で補助金競争に走り,バイデン大統領は自由市場原則を捨て,攻撃的な産業政策をとった。米国政治が保護主義化する中でグローバリゼーションを維持するのは不可能にもみえる。しかし,米国にはまだ救いもある。対応は厖大で急を要するが,米国はグローバル・システムが完全に崩壊する前に,ゼロサム思考を止め,世界秩序を死守しなければならない”。
この記事では,グローバルな経済統合を進めるために,米国はCPTTPに参加すべきだとも書かれている。なお,米国の産業政策に対する協議の要請はまだWTOに出されていない(本誌1月23日付,No.2824参照)。
[注]
- (1)CHIPS法は,シューマー上院民主党院内総務が2021年4月に提出した米国技術革新競争法案が出発点となり,その3ヵ月後に提出された下院法案が上院可決法案を取り込んで一本化(HR4346)され,紆余曲折を経て2022年7月上院(賛成64,反対33)および下院(同243,187)で可決成立した。なお,CHIPSはCreating Helpful Incentives to Produce Semiconductorsの略。
- (2)CHIPS法の概要と企業の投資計画は,ジェトロ地域・分析レポートに掲載されている2022年12月28日付「米国で盛り上がる半導体産業の振興と輸出管理」による。
- (3)ジェトロ・ビジネス短信(「米商務省,CHIPSプログラムの実施戦略発表,2023年2月までに申請受け付け開始へ」)。なお,2月17日時点ではまだガイドラインは発表されていない。詳細はNISTのHPを参照。
- (4)SEMATECH(SEmiconductor MAnufacturing TECHnology)は1980年代に起こった日米半導体紛争の最中,日本の脅威に対抗するため米国防省と米国の半導体・半導体製造装置メーカー14社の出資で発足した半導体共同開発機構。設立から5年間の政府資金援助は5億ドル。1993年には米国の半導体生産が再び日本を抜いて世界第1位に返り咲き,米政府の資金援助は1998年に終了した。同年にはInternational SEMATECHと名称を変え,世界の半導体関連企業も参加している。
- (5)タイ通商代表が2022年10月7日,ルーズベルト研究所主催の「進歩的産業政策会議」で行った演説(Remarks by Ambassador Katherine Tai at the Roosevelt Institute’s Progressive Industrial Policy Conference)。本稿はUSTRのHPに掲載されている講演予定稿によった。なお,同研究所はルーズベルト第32代大統領夫妻を顕彰するリベラル派のシンクタンク。1987年創設,本部ニューヨーク市。
- (6)Remarks on Executing a Modern American Industrial Strategy by NEC Director Brian Deese.
- (7)America’s Must-Win Semiconductor War, Steven Rattner, The New York Times, Jan. 16, 2023.
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